太平洋戦争で敗れ、
60万人近くの方がシベリヤに抑留され、
つらく厳しい抑留生活を余儀なくなされます。
そんななか、ハバロフスクのある収容所では
小さな犬が、捕虜たちの大きな心の支えとなりました。
そして、その犬は、捕虜たちが日本に戻る時に・・・。
今回はその話を紹介します。
(過酷なシベリア抑留)
太平洋戦争が終わる1週間前の1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破り、日本に参戦します。
やがて、終戦を迎え、満州にいた日本兵などの多くの日本人がソ連に連行されます。
彼らは捕虜となり、中央アジアや極東などソ連の各地にある収容所に連れて行かれます。
強制収容所での生活は、ぼろ小屋の中での集団生活、粗末な服装、わずかで、しかも粗末な食べ物でした。
日本が受諾したポツダム宣言では「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証していました。また国際法では捕虜に対して、収容されている間、人道的かつ、人格と名誉を尊重した扱いを行わなければなりません。
しかし、ソ連が捕虜に行ったこの扱いは、国際法違反行為であり、同時にポツダム宣言の違反行為です。
強制労働は、冬場になるとマイナス数十度という極寒での長時間労働が強いられる厳しいものでした。また寒さだけでなく、栄養失調やチフスが原因で多くの人が亡くなりました。
(黒い子犬)
そんな厳しい収容生活が続く中、あるとき、ハバロフスクのある収容所で、誰かが黒い子犬を拾ってきました。
この犬はメスで、黒い犬だったのでクロと呼ばれ収容所で飼われるようになり、マスコットとなりました。
そして日本人にはなつくのに、ソ連兵を見るとけたたましくほえたそうです。
また、クロは収容所内での野球大会で野球のボールを取ってきたり、収容所で火事が起きた時に発見し知らせたこともあります。
クロの存在は、収容所での厳しい労働やなかなか帰国できない絶望の中で過ごす抑留者たちのアイドルであり癒し、そして心の支えになりました.
(帰国)
1956年(昭和31年)10月、日ソ共同宣言調印を機に、ソ連にいる抑留者の帰国が決まります。
クロと過ごしてきた日本兵たちも帰国することになりました。
彼らはクロと別れ、ハバロフスクから引き揚げ船が出航するナホトカ行の列車に乗りました。
そして12月24日、シベリアからの最後の引き揚げ船「興安丸」がナホトカから出港しました。
(クロだ!!)
船がゆっくりと動き出すと、何かが引き揚げ船を追って走ってくるのが見えます。
よく見ると・・・クロです!!何とクロが凍った海の上を追いかけているのです!
収容所で一緒に過ごした犬のクロが引き揚げ船を追いかけているのです!!
ハバロフスクからナホトカまでは、約800キロ。この気が遠くなる距離を、クロがどうやってきたのか?
誰かが内緒でクロをナホトカに向かう列車に乗せたのかもしれません。
とにかく、クロはナホトカまで来ていたのです。
クロは、氷の上を走り、さらに氷がない極寒の海に飛び込み、興安丸を追いかけます。
やがて引き揚げ船はゆっくりと止まり、縄ばしごを下ろしてクロを船に乗せます。
こうして12月26日、最後の引き揚げ船・興安丸は、クロと引き揚げ者を乗せ、日本の舞鶴にやって来ました。
その後、クロは舞鶴で飼育されたそうです。
シベリア抑留者たちと過ごし、そして一緒にソ連から舞鶴港へやってきた犬・クロは、入国や検疫をどうクリアしたかが気になりましたが、まあ引き揚げ時の混乱で、うやむやになったのでしょう。
この映画のようなできすぎた話には「本当か??」と疑いましたが、これは実話です!
こんなことがあるんですね!!クロの話は本にもなっています。
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シベリア抑留にはこの映画がお勧めです。この映画には、当ブログで紹介したクロの話も出ています。
まずは、クリックしてどんなものなのか見て下さい。👇
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書籍もありますよ👇
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先の大戦後、シベリアに抑留された方は、厚生労働省の発表では約57万500人、帰還者は約47万3000人、およそ5万5000人が死亡したとされています。
・・つらく長い抑留生活で、
捕虜たちの大きな心の支えとなり、
帰国の時に流氷の上を駆け寄り一緒に帰国した。
そんな犬がいました。