5月23日、明治天皇が
六大巡幸の第一回目となる西日本の巡幸に出発しました。
(巡幸の意義)
江戸時代の歴代天皇は、京都御所を出ることすら、まれで、生涯の大半を御所で過していたため、明治維新まで、天皇は、人々の眼に見えない存在でした。
明治維新が起き、江戸幕府が倒れ新政府が発足すると明治天皇は、これまでの歴代天皇とは対照的に日本各地へ行幸し天皇は「見える」存在へと変化しました。
明治天皇はときに数カ月に及ぶ地方視察に出向き、「旅する天皇」となります。それは、近代国家の統治者としての天皇を、国民に可視化させる一大プロジェクトだったのです。
明治天皇の日本各地の地方巡幸は100回近くあり、 日帰りも30件以上あると言われています。
そのうち、1872年(明治5年)の九州・西国、1876年(明治9年)の東北・北海道、1878年(明治11年)の北陸・東海道、1900年(明治13年)の甲州・東山道、同1881年(明治14年)の山形・秋田・北海道、1885年(明治18年)の山口・広島・岡山、の合計6回の巡幸を六大巡幸(ろくだいじゆんこう)と言います。
明治初年からの10年間に集中して行い期間も1か月半~2か月以上と長期です。
(第一回の巡幸)
1872年(明治5年)5月23日から7月12日まで、明治天皇は六大巡幸の最初となる西国巡幸を行います。
この巡幸の目的は、天皇に全国の地理・人民・風土などを視察させ現状を把握すること、そして、政府の方針を天皇自らが出向く行幸によって人々に知らせることでした。
そして、この行幸には西郷隆盛が付き添いました。
(5月23日品川沖を出発)
5月23日に、天皇は西郷隆盛とその弟の西郷従道(陸軍少輔)など70余人を率いて品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)に乗艦します。
25日に艦隊は鳥羽湾に到着し、最初の訪問先である伊勢神宮を参拝します。伊勢神宮は天照大神を祀る神道の頂点ですから、最初にここを訪れるのは理解できます。
次の訪問先の大阪に向かう途中の航路で、ロシア軍艦と遭遇します。このとき露西亜の軍艦は、龍驤に掲げられた錦旗に敬意を表して国家元首に対する21発の礼砲を撃ち祝福します。
大阪についた明治天皇に対し大阪市民は献灯を掲げて奉迎の意を表し拍手して万歳を唱えました。
5月30日に大阪を立って京都へ到着します。かつて御所で過ごした明治天皇にとっての里帰りでもありました。
京都では6月3日まで滞在し、産物を陳列した博覧会に出席します。また、地元中学校も訪問し、生徒たちの句読、暗誦、算術、外国語などの試験の様子を視察しています。
華士族の子女(後に平民の子女も入学可能となった)に英語、ドイツ語、フランス語、手芸を教える目的で創設された新英学校女紅場(後の京都府立第一高等女学校)も訪問しています。
(下関上陸)
6月4日に京都を発ち、途中大阪にたちより、10日には海路で下関に上陸します。
当時の明治政府を動かしていた薩長の1つ、長州です。
下関には3泊します。 現在、上陸地には明治天皇御上陸聖跡があります。
詳細は下をクリックして御覧下さい↓
一行は6月14日には長崎に到着します。
下の錦絵は長崎港に入港する様子です。長崎には17日まで滞在し、長崎製鉄所などを
視察します。
【聖徳記念絵画館壁画『中国西国巡幸長崎御入港』】
(西郷隆盛スイカ投げつけ事件)
6月18日長崎から、有明海に入り熊本小島沖に到着しましたが、ちょっとしたハプニングが起きています。
遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するのですが、有明海の干満の測定を誤り、上陸まで手間取ってしまい、上陸が完了するまでに夜遅くまでかかりました。
随行した西郷隆盛は、この関係者の不手際に怒って、行在所で供されたスイカを、庭に投げつけ割ってしまいました。明治天皇はその様子を見ていました。
(鹿児島にて)
6月22日に、薩摩の地、鹿児島に到着し鹿児島城に入城します。同行した西郷隆盛、従道兄弟の地元です。
下は、明治天皇が鹿児島城に入城する錦絵です。
橋を渡り始めようとしている馬に騎乗しているのが明治天皇です。
徒歩で供奉しているのが西郷隆盛、橋の中央部で騎乗しているのは西郷従道です。右下で平伏しているのは旧薩摩藩士とその家族です。
【聖徳記念絵画館壁画『中国西国巡幸鹿児島着御』】
また、鹿児島港では陸海軍の対抗演習が天覧に供されました。これは1863年(文久3年)におきた薩英戦争を再現したものでした。
明治天皇は、薩摩焼の製造、磯の紡績場や大砲製造所などを視察します。
地元の人々からは御田植踊、桜島踊、太鼓踊、相撲などが天覧に供されました。
(不幸な天皇の陵に足を運ぶ)
この巡幸で明治天皇は7月4日、四国の丸亀に到着します。
ここで崇徳天皇陵と淳仁天皇陵を遙拝しています。
崇徳上皇は、保元の乱で、讃岐国(香川県)に流され、この地で亡くなりました。この恨みで怨霊になって天変地異などを引き起こしています。菅原道真、平将門とあわせて日本三大怨霊と呼ばれています。
下の写真は坂出にある崇徳上皇陵の白峯陵(しらみねのみささぎ)です。
もう1人の淳仁天皇は、第47代天皇で、758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉に在位していたにもかかわらず、政変に巻き込まれ廃帝となったことから長い間、天皇としてカウントされていませんでした。
1870年(明治3年)に弘文、仲恭、の2人の天皇とあわせて新たに天皇にくわえられました。
下の写真は淡路島にある淳仁天皇陵です。
この日、東京からの知らせで旧薩摩藩兵が大半を占める近衛兵の間で衝突が起きたという報告が入ったため、薩摩出身の西郷隆盛と従道は急遽に軍艦で東京に戻りました。
天皇は予定通りの巡幸を続け、神戸に寄港し、7月12日に無事帰路に就きます。
・・・というわけで、5月23日は
明治天皇が六大行幸の最初の行幸に出発した日です。