福岡県北九州市には、かつて日本陸軍の重要な軍需工場「小倉造兵廠」がありました。
太平洋戦争中にはB29の攻撃目標となり、さらに原爆投下の候補地にもなった場所です。
現在も周辺には、給水塔や防空監視哨など当時の痕跡が残されています。
今回はその中でも、普段は一般公開されていない「小銃試射場」の遺構を特別に見学する機会がありました。
戦争の歴史を今に伝える、小倉造兵廠の貴重な遺構を紹介します。

北九州市小倉北区・大手町にあった、
日本陸軍の大規模軍需工場「陸軍小倉造兵廠」。
今回、一般には立ち入ることができない
個人所有地の一角に、
戦後80年となる2025年(令和7年)夏に、
特別に許可をいただき足を踏み入れることができました。
(陸軍小倉造兵廠)
福岡県北九州市小倉北区・大手町。
この一帯には、かつて日本陸軍の大規模軍需工場「陸軍小倉造兵廠」がありました。
小倉造兵廠の敷地面積は約58万3千平方メートルにおよび、ここで小銃・機関銃・高射機関砲・砲弾、さらには風船爆弾まで製造されていました。
現在、この地には図書館、勝山公園、北九州市役所、健和会病院などがあります。
おっさんは跡地を歩いてみましたが2時間はかかりました。
(小倉造兵廠設立の経緯)
小倉造兵廠は1923年(大正2年)に起きた関東大震災で壊滅した東京工廠を移転・再建したものでした。
震災時には倒れた電柱が復旧の大きな妨げとなったことから、電線を地下に通すための地下道が整備されました。
この地下道は全長約1キロにおよび、各工場をつなぐ重要な役割を果たしていました。(現在残るもの)
戦後、小倉造兵廠の多くの施設は取り壊されました。
しかし私有地ながら、地下道幹線と小銃試射場の一部が残っていて、これは現在、残っている唯一の小倉造兵廠の名残と言われています。
なお、その場所は私有地なので、普段は誰もが自由に立ち入ることができません。
今回、特別にご厚意により許可をいただき、内部を見学させていただきました。
ということで、今回ここに残す記録は極めて貴重です。
(小銃射撃試射場の構造)
小倉造兵廠の小銃射撃試射場へは小さな入り口から入りました。
当時は大きな窓が設けられていましたが、現在は塞がれ、内部は薄暗くなっています。外部からその存在を知ることはできません。

下は内部の地図です。
入り口の正面には、鉄の扉があり、その先には造兵廠地下道の本堂につながる江田トンネルがあります。左には、1番奥が全長約300メートルに及ぶ試射場、その手前がその控室で、そこには階段跡・窓の痕跡などがありました。右側は待機記録室です。

入り口の正面です。
奥には鉄の扉があり、この先は、造兵廠地下道の本堂につながる江田トンネルの入り口になります。



入り口左部はかつて第二製造場(銃機工場)の下にある施設で、待機場所でした。
階段の痕跡と入り口が残ってます。

上にある工場で完成した銃が、この階段を使って下ろされ、この奥にある試射室へと運び込まれました。

小銃の試射場の長さはおよそ300メートル。
銃口から発射された弾は、遠く300m先の標的をめがけて放たれ、ここで銃の性能試験が繰り返されていました。

入り口の右側は、待機記録室でした。


(地上に残る当時の面影)
西日本最大級の軍事工場だった「陸軍小倉造兵廠」。現在、その場所は、病院・公園・図書館となっています。

健和会病院の隣にある公園には当時の名残のものが置かれています。

【給水塔】


【防空監視哨】


(B29日本本土初空襲の攻撃目標)
1944年(昭和19年)6月16日、B29の日本初空襲の時には、攻撃目標になり、そこで働いていた80人余りが命を落としました。
小倉陸軍造兵廠跡地に建てられた永照寺には、その空襲で亡くなった犠牲者を追悼する碑があります。


(2度の原爆投下目標)
小倉造兵廠は、太平洋戦争末期には、2度、原子爆弾の投下目標になりました。
最初に原爆が投下された8月6日の時には、第一目標が広島で小倉は第二目標でした。
この時は、そのまま第一目標の広島に原爆が投下されました。
2度目の原爆投下となった8月9日は、小倉が第一目標でしたが、視界不良や様々な状況で第二目標の長崎に原爆が投下されています。そのため、勝山公園には長崎の鐘と慰霊碑があります。



小倉造兵廠は終戦とともにその役割を終え、跡地は街へと姿を変えました。
しかし、非公開地に残されたこれらの遺構は、確かに戦争の歴史を伝える“証言者”として存在しています。
この貴重な体験を通じて、戦争の記憶が少しでも後世へ受け継がれていくことを願います。





