日銀が日本で2番目に支店を置いたのが
山口県下関市です。
なぜ県庁所在地でもない下関に
“日本で2番目の日銀の支店”が置かれたのか。
下関の日銀西部支店跡を歩き、その理由を紹介します。
■ 下関は日本銀行が“2番目の支店”を置いた地域
下関の唐戸市場から歩いてすぐにある明治安田生命下関ビル。
ここには、1893年(明治26年)に開設された 日本銀行西部(さいぶ)支店の仮支店がありました。ここは「馬関支店」とも呼ばれていました。
日本銀行は、1882年(明治15年)10月10日に開業、同年12月15日には大阪支店を開業しました。
そして、その次に選ばれたのが、県庁所在地でもない山口県下関市でした。 この事実だけでも、当時の下関がどれほど重要な都市だったかが伝わってきます。
■当初は門司港が候補地だったが・・・
実は、当初の日銀西部支店の候補地は下関の関門海峡を挟んだ対岸にある北九州の 門司港でした。
当時、門司港は横浜・神戸と並ぶ三大貿易港として期待され、1891年(明治24年)4月1日に旧門司駅が開業しました。
下の写真は当時の旧門司駅の駅舎です。

開業当時は、プラットホームには屋根がついていません。

明治初期の九州は、
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長崎の貿易
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筑豊の石炭
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八幡の製鉄
といった産業が急速に発展していきます。
そのため九州経済を支えには、日銀は九州の“入口”である門司港に支店を置く必要が、あったのです。
しかし、川田日銀総裁が門司港を視察したところ、 「鉄道が開通したばかりで、九州鉄道会社の本社がある程度ということで市街地が形成されていない」 という理由から、門司と同一経済圏を形成していた対岸の赤間関(現・下関) に白羽の矢が立ちます。
■ 下関の西部支店の“最初の建物”は廻船問屋の改築だった
赤間関市(現在の門司市)西南部町(なべまち)52ノ1にあった第百十国立銀行(山口銀行の前身)の店舗を買い取ります。
ここは、もともとは廻船問屋の建物で、
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1階は広い営業場
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2階は船頭の宿泊部屋
という造りだったそうです。
この建物を突貫工事で改築し、1893年(明治26年)10月1日に西部支店が仮店舗として開業します。
「仮店舗」と言うのは、ゆくゆくは門司港に店舗を映すまでの期間限定の仮の店舗と言う事からです。
そして、翌 2日から営業を開始しました。支店長と職員14名の小世帯でした。

■ 初代支店長は後の総理大臣・高橋是清
西部支店の初代支店長は、後に日銀総裁、大蔵大臣、そして内閣総理大臣にまで上り詰めた 高橋是清。
開業のわずか一週間前に下関入りし、 建物の検分から改築の指揮、金庫の設置まで自ら陣頭指揮を執ったというエピソードが残っています。
■ 現地訪問
当時、日銀西部支店が置かれた下関の南部町周辺を訪れました。
国道がある場所は、まだ埋め立てられておらず、目の前に海が広がってました。
ここは江戸時代には北前船の船着き場として栄え当時は廻船問屋が軒を連ねていました。
1899年(明治32年)2月に出版された「山口県赤間関市統計書 明治30年分」です。1897年(明治30年)の段階で、赤間関市(現在の下関市)には日銀など6つの銀行があるのがわかります。

(出典:山口県赤間関市統計書 明治30年分:国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/807669/1/30)
1890年(明治33年)6月に出版された「地理写真帖 内國之部第2帙」で紹介された、赤間関市内の様子です。

(出典:「地理写真帖 内國之部第2帙」国立国会図書館デジタルアーカイブス
https://dl.ndl.go.jp/pid/761459/1/40)
やがて海が埋め立てられ、明治の終わりから大正・ 昭和初期にかけては、多くの銀行が軒を連ね、大変にぎわっていました。

現地には、高橋是清翁の顕彰碑 が静かに建ち、当時の熱気を伝えていました。


■ わずか5年で門司へ移転─
下関に建てられた日銀西部支店は、


日銀西部支店門司港の事は
コチラをクリックして御覧下さい👇
わずか5年間の下関時代でしたが、 九州経済の基盤を整える“橋頭堡”としての役割は非、常に大きかったと言えます。
<<下関の日銀西部支店があった場所への行き方>>
現在は、明治安田生命山口支社となっています。
JR下関駅から徒歩15分程度
住所:山口県下関市南部町19-7
日銀の2番目の支店が置かれた理由は、
単なる地理的条件ではなく、
九州経済の未来を見据えた戦略的判断 でした。
そしてその舞台となったのが、 海運で栄え、
九州の玄関口として発展した 下関。





