行われた場所に行ってきました。
1886年(明治元年)徳川幕府を倒し、明治政府になった大日本帝国は、富国強兵に
つとめ、やがて1894年(明治27年)、当時中国を治めていた清国と戦争をします。
日清戦争です。
そして戦争に勝ち、その翌年に、山口県下関市で講和会議を行います。
下関条約は、正式には、日清講和条約といいますが、会議が開かれた山口県赤間関市(現在は下関市)の通称「馬関」から馬関条約とも言います。
(日清交渉の舞台:春帆楼)
下関条約の会場となったのが春帆楼。
ここは、関門海峡を望む風光明媚な土地で、安徳帝を祭る赤間神宮の隣にあります。
ホテルの入口・玄関の右には、記念碑があります。
この春帆楼の隣に、当時の講和会談の模様を再現した「日清講和記念館」があります。
ここには、下関条約に関する資料が展示され、当時の交渉の場も再現されています。
入場は、無料。誰でも見学ができます。
春帆楼2階の大広間で繰り広げられた日清両国の交渉の場を移築し再現しています。
会議で実際に使われた大小16脚の椅子、大ランプ、フランス製ストーブ、インクポット、蒔絵の硯箱などを展示しています。蒔絵が施された豪華な椅子は、この会議用に
東京の浜離宮から特別に運んで用意したそうです。
(春帆楼の歴史)
春帆楼は、もとは病院で1877年(明治10年)に月波楼医院が作られました。
その後、1881年から82年頃に、医院長の奥さんが、医院長が亡くなった後に伊藤博文のアドバイスで割烹料理を始めたのが起源です。
春帆楼という屋号は、伊藤博文が、「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様」から名付けました。
この春帆楼は、1895年(明治28年)に日清戦争の下関条約の会場に選ばれます。
下関が講和会議の地に選ばれたのは、まず当時の日本政府で勢力を誇っていた長州藩の地元にある、この旅館は伊藤博文と結びつきが強い、さらに、目の前が関門海峡で、交渉中に日本海軍の軍艦が遼東半島を目指し次々と進んで行く姿を清国側に見せ日本の軍事力を誇示するデモンストレーションを行うことにうってつけだったという理由があります。
(日清両国の交渉)
1895年(明治28年)3月19日、清国の講和全権大臣の李鴻章を中心とする清国交渉使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着し、翌日20日から日本側の伊藤博文と陸奥宗光との講和交渉を開始します。
講和会議の場所は、当時の春帆楼の二階大広間でした。
当時のやり取りを書いた本を読むと、交渉の際に日本側が、日差しが良い窓側に座ったために、交渉の時に清国側がまぶしくなることで精神的圧力をかけたり、清国側が窓から外を見ると関門海峡を通過する日本海軍の軍艦の一団を目にするようになっていて、その光景に清国側が脅威を感じるなど色々な戦略が仕込まれていました。
【日清講和記念館に掲げられていた日清講和の模様】
そして4月17日、日清講和条約が締結されました。
講和条約は日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章が調印。
主な内容は、清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲、賠償金二億両テールを支払う、などです。賠償金は当時の日本の予算の4倍でした。
「日清講和記念館」には、条約の文書の写しも展示されています。
条約の最後には、日本側伊藤博文・陸奥宗光と清国李鴻章の名前が記されています。
しかし、調印直後ロシアを中心とする三国干渉で、日本は遼東半島を返還します。
そのため「臥薪嘗胆」が叫ばれました。
「日清講和記念館」の真横、ホテルとの間には、交渉に参加した内閣総理大臣の伊藤博文と外務大臣・陸奥宗光の像があります。
(フグ料理公認第一号店)
春帆楼は、日本初のフグ解禁の店でも有名です。
地元山口出身で初代総理大臣の伊藤博文が当時禁じられていたフグ料理をここで食したときに、そのおいしさでフグ解禁をしました。
その後も、春帆楼は、天皇や皇太子が宿泊するホテルとして利用されています。
<<日清講和条約記念館への行き方>>
電話:083-223-7181
【春帆楼公式HP】