
卑弥呼が治めた邪馬台国は、どこにあったのでしょうか。
現在、邪馬台国の所在地については、主に畿内説と九州説が知られています。
しかし、その候補地はこの二つだけではありません。
徳島には、「邪馬台国は阿波にあったのではないか」という説があり、その根拠の一つとされているのが、徳島市国府町に鎮座する天石門別八倉比賣神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)です。
この神社の奥には、「卑弥呼の墓ではないか」と伝えられている場所があります。
そこで、実際に八倉比賣神社を訪ねました。
⛩️ 緑に包まれた「杉尾さん」へ
八倉比賣神社は、徳島市国府町にあります。
神社へ向かうには、古代の竪穴住居や高床倉庫などが復元されている阿波史跡公園を目印にすると分かりやすいでしょう。
阿波史跡公園を正面に見て左側へ進み、小さな坂道を上っていくと、やがて鳥居が見えてきます。
ここからが、八倉比賣神社への参道です。

鳥居をくぐると、鬱蒼とした木々に囲まれた長い石段が続いています。

実際に歩いてみると、この石段はなかなかのもの。
300段近くあるという石段を、一段ずつ上っていきます。
木々の間から差し込む光を眺めながら、ようやく拝殿へ。
静かな山の中に建つ社殿は、街中の神社とはまた違った神聖な雰囲気を感じさせます。

この神社が鎮座するのは、杉尾山(すぎおさん)。
地元では親しみを込めて「杉尾さん」と呼ばれているそうです。
そして、この杉尾山は神体山として信仰されてきたとされています。
さらに八倉比賣神社の社殿付近から山の奥へ続く場所には、古墳との関係をうかがわせる地形が残されています。
🔮 奥の院に残る「五角形の祭壇」
この神社の奥にあるのが、最大の見どころともいえる「奥の院」です。
そこには、五角形の石組みで造られた祭壇があります。
ここを卑弥呼の墓という人もいます。

拝殿の右側から山道を進み、

さらに約100メートルほど登っていきます。

すると、森の中に独特な石組みが姿を現します。
これが八倉比賣神社の奥の院です。

徳島産の青石として知られる緑色片岩を積み上げて造られた、珍しい五角形の祭壇です。

高さは約50センチ。
一辺約2.5メートルの五角形になっているとされます。
何より印象的なのは、その形です。
山の中に、きれいな五角形の石組みが残されている。
上から見ると、その五角形がはっきりと分かります。

そして、その中央付近には青石で造られた祠があります。
その中には「鶴石・亀石」と呼ばれる石や、「つるぎ石」と呼ばれる石があります。

神社の説明では、この「つるぎ石」は永遠の生命を象徴するものとされています。
この独特の祭壇と「つるぎ石」の存在から、ここを古代の祭祀施設、さらには「卑弥呼の墓」ではないかと考える人もいます。
もちろん、これは学術的に確定したものではありません。
しかし、実際に現地に立ってこの五角形の石組みを見ると、
「なぜ、この場所にこの形なのだろう?」
という疑問が自然と浮かんできます。

📜 「卑弥呼の墓説」を支える古文書
八倉比賣神社が卑弥呼と結び付けられる理由は、五角形の祭壇だけではありません。
神社に伝わる古文書、『八倉比賣大神御本記』にも注目されています。

そこには、主祭神である大日孁女命(おおひるめのみこと)の葬儀に関する詳細な記述が残されています。なお大日孁女命は、一般に天照大神の別称の一つとされています。
そして、この葬儀には、道案内、警護、神衣の準備など、それぞれの役割を担う神々が登場します。
- 道案内の先導役:伊魔離神(いまりのかみ)
- 葬儀委員長:大地主神(おおくにぬしのかみ)
- 警護:木股神(きまたがみ)、松熊二神
- 神衣(喪服)を縫った:広浜神(ひろはまのかみ)
さらに、、『八倉比賣大神御本記』には、八百万の神々が奏でたカグラが「嘘楽」と表記されていて、これは、大神を失った悲しみを「偽りの楽しみ」で紛らわせるもの、つまり葬送に伴う音楽を意味すると解釈されています。

(出典「天石門別八倉比賣神社本記」:国文学研究資料館
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100176720/20?ln=ja)
通常、神話では詳細に語られることのない「太陽神の死とお葬式」が、なぜこの徳島の古社にだけ克明に記録されているのか?
「これは神話として描かれた太陽神の死ではなく、古代の女王の葬儀を反映したものではないか」
という見方が生まれ、この太陽の巫女の死の記録こそが、魏志倭人伝に記された「卑弥呼の死と100余人の殉葬、大いなる塚の造営」の記述と重なると考える人々がいます。
また『魏志倭人伝』には、卑弥呼が亡くなった際、「大いなる塚」を造ったという記述があります。
八倉比賣神社に伝わる古文書にも「神陵」に関する記述があり、そこには「神陵の経は百余歩」と記されています。
数値が『魏志倭人伝』の「径百余歩」という記述と一致することから、両者を結び付けて考える説があります。
こうした複数の要素を結び付け、
「八倉比賣神社の奥の院こそ、卑弥呼の墓なのではないか」
と考える人々がいるのです。
ただし、これはあくまで一つの説であり、現在の考古学で卑弥呼の墓と認定されているわけではありません。
💧五角形の石組み
八倉比賣神社周辺を始め、徳島には五角形の石組みが残されているともいわれています。
これらが古代の祭祀とどのように関係しているのか。
陰陽道の五芒星との関係を指摘する説もありますが、これについても慎重に考える必要があります。
🏺 「邪馬台国=阿波」説とは?
では、なぜ徳島が邪馬台国の候補地として語られるのでしょうか。
阿波が邪馬台国だったとする説は、郷土史家らによる研究の中で論じられてきました。
その代表的なものの一つが、1976年(昭和51年)に出版された『邪馬壱国は阿波だった』です。
八倉比賣神社の御祭神は八倉比売命。この女神は天照大神であるとされており、天照大神は大日孁尊(オオヒルメノミコト)とも呼ばれます。
これは卑弥呼の別の読み方「ヒルメ」と同じであると主張する人もいます。
もちろん、これも歴史学上の定説ではありません。
それでも、徳島の古代史を考えるうえで、非常に興味深い説であることは間違いありません。

🤔 実際に訪れて感じたこと
今回、実際に八倉比賣神社を訪ねてみて、一番印象に残ったのは、やはり奥の院の五角形の祭壇でした。
長い石段を上り、さらに山道を進んだ先。
そこに突然現れる独特の石組み。
しかし、これを「卑弥呼の墓」と断定することはできません。
現在の研究では、周辺の古墳の築造年代についても、卑弥呼が亡くなったとされる3世紀半ばとは年代的な隔たりがあるとされています。
そのため、現在確認できる遺構を、そのまま卑弥呼の墓と結び付けることには慎重であるべきでしょう。
それでも、実際にこの場所に立つと、古代の人々がこの山を特別な場所として捉え、長い年月にわたって祈りを捧げてきたことを感じさせられます。
歴史には、まだ分からないことがたくさんあります。
「卑弥呼の墓なのか?」
その答えは、今のところ分かりません。
しかし、なぜこの場所に五角形の祭壇が造られたのか。
そして、なぜ八倉比賣神社に卑弥呼や邪馬台国と結び付く伝承が残っているのか。
実際に現地を歩いてみると、そんな疑問が次々と湧いてきます。
これこそが、古代史を訪ね歩く面白さなのかもしれません。
📍 八倉比賣神社へのアクセス
天石門別八倉比賣神社(八倉比売神社)
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住所:徳島県徳島市国府町西矢野字宮谷531
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JR徳島線「府中駅」から徒歩約40分
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阿波史跡公園駐車場から徒歩約300m
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鳥居から拝殿までは長い石段が続きます
古文書の出典)
この卑弥呼の墓の説のベースになっている『天石門別八倉比賣神社本記』やその解説書『杉の小山の記』ですが、実は国文学研究資料館のデータベースで、江戸時代に手書きされた実際の古文書(写本)の全ページスキャン写真を無料で見ることができます! 筆文字の質感から当時の熱量が伝わってきます。

今回は、
徳島に残る「卑弥呼の墓」という伝承をたどって、
八倉比賣神社の奥の院まで歩いてみました。
古代史の謎を実際の場所で感じられる、
非常に興味深い神社でした。





