東京都北区、JR板橋駅前には、近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑が建てられています。
【東京都調布市にある近藤勇生家の看板に使用されている近藤勇の写真】
ここには、土方歳三が函館で戦死した副長・土方歳三など百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。
(流山で捕まり板橋で死刑。首は京都へ)
新選組は池田屋事件等での活躍し、幕末の京都を警護する部隊として有名になっていきます。
しかし世の中の動きが討幕へ進む中、鳥羽伏見の戦いでやぶれ、近藤勇は江戸にもどります。新選組は甲陽鎮撫隊と名をかえ戦いを続けますが、苦戦が続きます。
また、方針の違いから永倉新八とも袂を分かちます。
明治になる年の1868年4月3日、流山にいるところを新政府軍に知られ近藤勇は捕らえられます。
その後、当時、板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に移送されます。
そこで尋問を受けたあと板橋刑場で処刑されました。
その首は京都に送られ三条河原で3日間さらし首になりました。享年35。
処刑後、首の無い近藤の胴が埋められた場所が現在の板橋駅東口前付近で、ここに近藤勇の墓が立てられています。
敷地の奥、正面に建つひときわ高い慰霊碑。
この正面には「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。
しかし、よく見ると・・・
近藤勇の名「昌宜(まさよし)」の字が何故か逆になっています。
正しくは「昌冝」です。
間違えたまま、後世に残ってしまいましたね・・。
1874年(明治7年)に、官軍に抵抗した側の死者を祀ることが許されます。
それを受けて、この慰霊塔は1876年(明治9年)に生き残った新撰組のメンバーだった永倉新八らによって建立されました。
また、永倉新八の墓は、供養塔の前を下がって左側にあります。
永倉新八は維新後も生き抜き、1925年(大正4年)1月5日に、77歳で亡くなります。
敷地内には、近藤勇の姿もあります。
<<参考:近藤勇関係史跡>>
【近藤勇の生家について書いたブログはココ】
【池田屋事件について書いたブログ】
【池田屋を訪れた時のブログはここ】
(近藤勇を受け継ぐ撥雲館と近藤神社)
1876年(明治9年)、近藤勇の一人娘・瓊(たま)と結婚し、天然理心流5代目を継いだ養子の近藤勇五郎が、東京都調布市にあった近藤勇の生家の向かい側に、道場「撥雲館(はつうんかん)」を建てました。
【撥雲館について書いたブログはココ】
また近藤勇の生家の隣には、昭和戦前い建てられた近藤神社があります。
【近藤神社について書いたブログはココ】
<<近藤勇の墓の行き方>>
JR板橋駅徒歩3分
住所:東京都北区滝野川7丁目8−10
近くに来たら是非どうぞ!
また、毎年近藤勇の命日・4月25日の直前の日曜日の
昼前には供養祭が行なわれています。