日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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4月17日、日清戦争の下関条約締結

 

 

4月17日は、

1895年(明治28年)に

下関条約(日清講和条約・馬関条約)が結ばれた日です。

 

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大日本帝国、初の外国との戦争:日清戦争

日清戦争は日本が大日本帝国となり外国との初めての戦争でした。

1868年(明治元年徳川幕府を倒し、明治政府になった大日本帝国は、西洋諸国に

追いつこうと近代化に着手し殖産興業と富国強兵につとめます。

1889年(明治22年)には大日本帝国憲法を公布、そして施行して近代国家の仲間入りを進めていました。

 

一方世の中は国際的にみれば帝国主義植民地主義の時代でした。

中国を治めていた清は大国でしたが1840年に起きたアヘン戦争、その後のアロー戦争で相次いでイギリスにやぶれます。その後も西欧諸国との不平等条約を次々と結び、半植民地のような状況に陥っていました。

一方、朝鮮半島では、朝鮮が日本に頼るか、清に頼るかで別れます。

 

1894年(明治27年)、朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって日本と当時中国を治めていた清国との間で、戦争が始まります。
日清戦争です。

このときの総理大臣は長州藩出身の伊藤博文で、下関条約にも参加します。

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(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)

 

一方、外務大臣は和歌山出身の陸奥宗光で、彼も下関条約に出席します。

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(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)

 

 

日清戦争は日本の勝利)

日清戦争は1894年(明治27年)7月25日の戦闘から始まり、8月1日に日本が清に

宣戦布告を行います。

近代化した軍隊を持つ日本は、快進撃を行い各地で清軍を撃退します。

日本陸軍は清国軍を撃破し朝鮮半島を制圧、一方、日本海軍も旅順港と威海衛を攻略して翌年2月には、黄海渤海制海権を掌握します。

清国側は敗戦が濃厚になり戦争開始の翌年、1895年(明治28年)3月20日

山口県下関市で両国間の講和会議が始まります。

 

なお、下関条約は、正式には、日清講和条約といいます。

また、会議が開かれた山口県赤間関市(現在は下関市)の通称「馬関」から馬関条約とも言います。
下関条約と言うようになったのは終戦以降です。

 

 (日清交渉の舞台:春帆楼)

下関条約の会場となったのが春帆楼。

交渉は3月20日から4月17日までここで行われました。

春帆楼は今でも山口県下関市にあります。

ここは、関門海峡を望む風光明媚な土地で、安徳帝を祭る赤間神宮の隣にあります。

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ホテルの入口・玄関の右には、記念碑があります。

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この春帆楼の隣に、当時の講和会談の模様を再現した「日清講和記念館」があります。

ここには、下関条約に関する資料が展示され、当時の交渉の場も再現されています。

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入場は、無料。誰でも見学ができます。

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春帆楼2階の大広間で繰り広げられた日清両国の交渉の場を移築し再現しています。

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会議で実際に使われた大小16脚の椅子、大ランプ、フランス製ストーブ、インクポット、蒔絵の硯箱などを展示しています。

蒔絵が施された豪華な椅子は、この会議用に東京の浜離宮から特別に運んで用意した

そうです。

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(春帆楼の歴史)

 春帆楼は、もとは病院で1877年(明治10年)に月波楼医院が作られました。

その後、1881年から82年頃に、医院長の奥さんが、医院長が亡くなった後に伊藤博文のアドバイスで割烹料理を始めたのが起源です。

 

春帆楼という屋号は、伊藤博文が、「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様」から名付けました。

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この春帆楼は、1895年(明治28年)に日清戦争下関条約の会場に選ばれます。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、まず当時の日本政府内で大きな勢力を誇っていた長州藩の地元にあるということ、さらに長州出身で初代総理大臣の伊藤博文と結びつきが強いこと、そして関門海峡に面して風光明媚だという理由からでした。

 

【春帆楼の公式HPに書かれた春帆楼の歴史】

  

(日清両国の交渉)

 1895年(明治28年)3月19日、清国の講和全権大臣の李鴻章を中心とする清国交渉使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着し、翌日20日から日本側の伊藤博文陸奥宗光との講和交渉が始まります。

講和会議の場所は、当時の春帆楼の二階大広間でした。

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当時のやり取りを書いた本を読むと、日本側の交渉の戦略がわかります。

交渉の際に日本側が、日差しが良い窓側に座わり交渉相手の清国側がまぶしくなることで精神的圧力をかけています。

また、春帆楼は関門海峡に面した地の利を生かし、清国側が窓から外を見ると関門海峡を通過する日本海軍の軍艦の一団を目にするようになっていて、その光景に清国側が脅威を感じるなど色々な戦略が仕込まれていました。

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      【日清講和記念館に掲げられていた日清講和の模様】

 

そして4月17日、日清講和条約が締結されました。

講和条約には日本全権伊藤博文陸奥宗光と清国全権李鴻章が調印。

主な内容は、清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲、賠償金二億両テールを支払う、などです。

賠償金は当時の日本の予算の4倍でした。

「日清講和記念館」には、条約の文書の写しも展示されています。

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条約の最後には、日本側伊藤博文陸奥宗光と清国李鴻章の名前が記されています。

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(領土と賠償金を獲得)

3月20日から4月17日の交渉で、下関条約は締結。

日本は戦争に勝利したことで国際的地位が向上し、イギリスとの協調関係を築いて

いきます。

受け取った賠償金は産業の発展に活用されます。九州の静かな漁村だった八幡村

賠償金で官営の八幡製鉄所を設立し、日本は本格的な工業化の第一歩を踏み出します。

八幡製鉄所について書いたブログはここ】

 

 「日清講和記念館」の真横、ホテルとの間には、交渉に参加した内閣総理大臣

伊藤博文外務大臣陸奥宗光の像があります。

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(フグ料理公認第一号店)

春帆楼は、日本初のフグ解禁の店でも有名です。

日清講和条約が締結される前の1888年明治21年)に

地元山口出身で初代総理大臣の伊藤博文が当時禁じられていたフグ料理をここで食したときに、そのおいしさでフグ解禁をしました。

 その後も、春帆楼は、天皇や皇太子が宿泊するホテルとして利用されています。

 

日清戦争について詳細に書かれた本ならコレがお勧め】

 

 

 

【春帆楼公式HP】

 

 <<日清講和条約記念館への行き方>>

JR下関駅からサンデン交通バス赤間神宮下車1分

住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-2

電話:083-223-7181 

 【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。

地図上のルートを押すと道案内をしてくれます】

 

 (おまけ)

この春帆楼がある周辺は、歴史的に重要な史跡がたくさんありますので、

春帆楼とあわせて見学して下さい。


 

 

4月17日は、日清戦争で勝利した日本が、

下関条約を結んだ日です。

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