1885年(明治18年)12月22日、明治政府が律令以来の太政官制度を廃止して
内閣制度が採用され、我が国最初の内閣となる、第一次伊藤博文内閣が発足しました。
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
(松下村塾で学び維新の中心の1人に)
1863年、22歳の時に、長州5傑の1人としてイギリスに留学し、西洋の文化を吸収してきます。
1868年明治維新が起きた時は、まだ28歳でした。
1882年(明治15年)には約1年間をかけて、ベルリンやウィーンで、憲法や近代行政、
議会のあり方や選挙の方法など、ヨーロッパの憲法制度を調査していきます。
これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、さらに大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながります。
そし1885年(明治18年)て12月22日、太政官を廃止して内閣制度を開始させ、
自らが、初代総理大臣となったのです。
(日本初代内閣閣僚の顔ぶれ)
総理大臣 伊藤博文(45才 長州)
内務大臣 山県有朋(48才 長州)
大蔵大臣 松方正義(51才 薩摩)
司法大臣 山田顕義(42才 長州)
文部大臣 森 有礼(39才 薩摩)
農商務大臣 谷千城(49才 土佐)
長州と薩摩が4人ずつ、残りを土佐と幕臣がいる派閥均衡内閣です。
なお、伊藤の最初の首相在任は861日でした。
内閣制度が発足したのは近代的立憲政治にとって大きな前進でした。
また宮内省を内閣の外に置いていて、宮中を政治から切り離すことを意図しています。
以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになります。
(「歴代首相等写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
(箒(ほうき)と呼ばれた女好き)
伊藤博文は女好きで非常に有名で女性とよく遊び、女が掃いて捨てるほどいたため
「箒(ほうき)というあだ名がついていました。
明治天皇にも「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたこともあるといいます。
その伊藤が幕末に恋愛をした神社が下関にあります。
この恋愛当時、すでに伊藤は既婚者でした。
この時、結婚した木田梅子は日本初ファーストレディとなります。
(フグ料理)
伊藤博文は、フグ料理を解禁した人でもあります。
当時禁じられていたフグ料理を山口県下関市にある春帆楼で食したときに、
そのおいしさに感激しフグを解禁しました。
この春帆楼は、日清戦争の下関条約が行われた会場でもあります。
(百姓から天下人)
伊藤博文は、元々は農民の子供でしたが、父親が足軽身分の伊藤家の養子に入ったために、息子の博文も同時に下級武士の身分を得ます。
つまり伊藤博文は農民の出身でありながら、そこから上昇し這い上がって初代内閣総理大臣=天下を取った人なのです。
これは百姓出身の豊臣秀吉が太閤検地と刀狩で、兵農分離を行い農民から天下を取る
ような人間が出ないようにして以来、初の出来事です。
こうして初代の伊藤博文から現在(2021年・令和3年12月22日)の100代の岸田文雄首相まで内閣総理大臣は続きます。
12月22日は、伊藤博文が初代首相になった日です。