1894年(明治27年)に始まった日清戦争の戦争指揮をとるために同年9月13日、
実は、首都・東京以外での大本営の設置はこれが最初で最後です。
広島大本営跡は広島城に入り石段を登ると、すぐ見ることができます。
現在、大本営跡には、石碑と建物の基礎だけが残っています。
日清戦争、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争まで、と3回設置されました。
大本営は1894年(明治27年)6月5日に東京にある参謀本部内に設置されました。
8月1日に日本が清国に対し宣戦布告を行い本格的に日清戦争が始まります。
そして9月13日に大本営は広島城内に移り、明治天皇が2日後に広島入りします。
(広島に大本営が置かれた理由)
広島が大本営の地に選ばれたのは、次の理由が考えられます。
①すでに広島城内には陸軍第五師団が置かれていたこと。
この師団司令部の建物が明治天皇の御座所として利用されました。
②当時、広島駅が東京につながる山陽鉄道の西端の駅であったこと。
③大型船が運用できる大きな宇品港(現在の広島港)が完成し、「日清戦争」では
朝鮮半島や中国大陸に向かう、兵士や物資の輸送の最前線となったこと。
④地理的条件から見て広島市が日清戦争の前線に向かう兵站基地であったこと。
・・・・などです。
明治天皇は日清講和条約(下関条約)調印終了後の1895年(明治28年)5月30日までの227日間、実に1年の7割近くここ広島に滞在し、指揮を執りました。
大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理を行うために広島に留まります。
そして1896年(明治29年)4月1日に解散します。
1894年(明治27年)9月13日からですから1年半以上、大本営が置かれていたことに
なります。
(臨時首都の様相を見せる広島市)
大本営が設置され、明治天皇が長期滞在したため、広島にはこの時期、国の機関=
立法・行政・軍事の3つが集中し臨時首都の様相を見せます。
日清戦争中の1894年(明治28年)10月に招集された第7回帝国議会は広島市の広島臨時仮議事堂で開会されました。これは明治維新後、首都機能が東京から離れた唯一の例です。
(原爆で吹き飛ばされた広島大本営)
現在、大本営があった広島城の本丸御殿跡には建物はなく、建物の基礎だけが
残されて、傍らには「明治二十七八年戦役廣島大本営」の石碑が建てられています。
1945年(昭和20年)8月6日、人類史上初めて戦争で原子爆弾が使用され広島市は一瞬で壊滅します。
この原爆で、爆心地から900メートル離れていた広島城にある広島大本営の建物も全壊します。
このことから原爆の破壊力のすさまじさがわかります。
下の写真は、広島大本営跡地にあった案内板の写真です。原爆で破壊された様子がわかります。
現在では、建物の基礎および礎石と、石碑が残っているだけです。
<<広島大本営跡に行くには>>
市内電車:「紙屋町東・西」から850m
日本で唯一東京以外に置かれた大本営が置かれた広島、
そして、900メートル離れていても
それを完全に吹き飛ばした原爆の威力もわかります。