日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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1925年(大正14年)12月12日、ピス健こと大西性次郎逮捕!

1925年(大正14年)12月12日、凶悪犯人のピス健こと
大西性次郎が逮捕されました。


(ピス健と呼ばれた凶悪犯)
「ピス健」は、大正末期、ピストルと刃物で強盗殺人を働き東京・大阪、さらに満州にも潜伏した大悪党です。ピストルや短刀を使って強盗を重ねましたことと、「守神健太」という偽名を使っていたため「ピス健」と呼ばれていました。

(11月9日校長宅を襲撃)
ピス健は、1925年(大正14年)の11月9日午前4時頃、東京府荏原郡品川(現、東京都品川区)の小学校校長宅に侵入し、寝ていた就寝中の校長を起こしピストルを突きつけて「金をだせ」と脅迫します。

校長がこれを拒むと校長に向かってピストルを発射します。

この騒ぎに、隣室で寝ていた校長の書生で教諭(当時は「訓導」)の幸田幸吉氏(31歳)が、ピス健と乱闘になります。このときピス健は、幸田氏を射殺します。校長は、一命を取り留めました。
そのままピス健は逃走します。
午前4時44分頃、品川駅派出所に国鉄職員から「駅構内で怪しい人物を発見したため呼びとめると、いきなりピストルを撃って逃走した」という連絡が入り、飯塚巡査が、現場に急行します。しかし飯塚巡査はやがて、心臓を刺されて絶命した姿で発見されます。
下の写真は、殉職現場から運び出される飯塚巡査の亡骸です。

(相次ぐ事件)
3日後の11月11日午前3時頃、神奈川県戸塚町の寺で短刀で脅して住職から現金を強奪した強盗事件が発生します。
14日には大阪府下茨木町(現、茨木市)の飲食店で女中がピストルで射殺されます。
さらに16日、大阪市東淀川区の寺でピストル強盗事件が起きます。
警察は、これらの事件を調査した結果、いずれも同一犯人よる犯行と断定しました。
そして茨木の女中殺しで捕まった犯行仲間の少年の供述から、犯人が、大西性次郎であることが判明しました。
(ピス健とは)
ピス健こと、大西は1908年(明治41)年7月、満州や日本各地で強盗や傷害事件を十数件も重ねて逮捕され無期刑で服役していました。しかし1923年(大正12年)に恩赦で減刑となり仮出獄していました。
そして浅草を拠点として東京、神奈川、大阪、京都、兵庫でピストルや短刀を使って強盗を重ねました。当時「守神健太」という偽名を使っていたため「ピス健」と呼ばれました。
(警察に犯行声明)
11月20日、警視総監と高輪署長宛に大西からの犯行声明が届きます。
手紙には「自分は幸田教諭や飯束巡査殺しの犯人である。連日の捜査誠にご苦労でお気の毒でたえない。自分は近く上京し、もっと大きな仕事をするつもりである。警察は自分の人相書を配布して、駅の乗客は一人の調べ漏れないよう、厳重な捜査を祈る」という内容で、手紙の消印は岡山県倉敷局でした。
(ピス健逮捕)
その後、兵庫県の三宮署に「怪しい男が神戸市内の小料理屋に潜伏している」との情報が入ります。

こうしてピス健は1925年(大正14年)12月12日の早朝、神戸市内の小料理屋に潜伏していたところを兵庫県警の警察隊に踏み込まれて逮捕されました。
ピス健は女装して蒲団で寝ていて、警官隊が踏み込むと、布団から起き出してピストルで反撃しようとします。しかし、警察隊が取り押さえ御用となりました。

下は逮捕され連行されるピス健です。

(首相など要人暗殺も計画)
ピス健は取調べで、11月9日に東京で起きた「幸田教諭、飯束巡査殺害」や、神奈川、大阪、京都、兵庫の3府2県で殺人強盗3件、強盗9件、さらに満州で3件のピストル強盗を実行したことを認めています。

また、当時の加藤高明首相、若槻礼次郎内相の暗殺も計画していたことを自供しました。

(法廷でも大暴れ)
ピス健の裁判は、1926年(大正15年)9月7日午前に、大阪地裁で開かれました。
しかしピス健は、進行が遅いと怒鳴り、法廷で暴れます。

同月25日午後1時に判決審があり、ピス健には死刑が言い渡されました。そして同年12月6日午前11時22分に大阪刑務所で刑が執行されました。

 

・・・ということで12月12日は、
殺人を繰り広げた稀代の大悪党・ピス健が
逮捕された日です。