日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎邸跡

池田屋事件のきっかけとなった事件が起こった場所が
あります。
そこには「勤王 志士 古高俊太郎邸址」と刻まれた
石碑がたっています。

(勤王 志士 古高俊太郎邸址)
京都市下京区河原町通四条上ル一筋目東入南側、四条河原町という、賑やかな繁華街の一角に石碑がひっそり立っています。

その石碑には「勤王 志士 古高俊太郎邸址」と刻まれて、その上には、説明文が書かれた看板があります。

看板には、詳細な説明文が書かれています。

(古高俊太郎)
古高俊太郎・・京都で勤王の志士を援助し、また池田屋事件のきっかけとなった人物です。
当時は、古高俊太郎ではなく枡屋喜右衛門でした。筑前福岡藩黒田家御用達の商人という由緒ある枡屋に後継ぎがいないため、1861年に古高俊太郎が養子に入り7代目喜右衛門となったのです。
ですから正式に言うと“7代目枡屋喜右衛門こと古高俊太郎”となります。

 

この“7代目枡屋喜右衛門こと古高俊太郎”は商人である一方、尊王攘夷派の志士でもあり策略家でもありました。
1863年八月十八日の政変がおき、長州藩尊王攘夷派の公家が京から追放されます。このあと、古高俊太郎は、長州藩有栖川宮家とを取り次ごうとしたり、尊王攘夷派の浪士たちの手助けをするなど画策し、諸大名や公家の屋敷に出入りし、諜報と武器調達にあたっていて幕府方にとって要注意人物でした。
商人なので、武士と取り引きなどのやり取りがあってもおかしくない・・・商人になったのは古高のそういう思惑があったのかも知れません。

(6月5日新選組がやってきた)
1863年8月18日に起きた八月十八日の政変から約10ヶ月後の1864年6月5日の早朝、新選組が古高俊太郎の家にやってきます。そして、武器や弾薬、諸藩浪士との書簡や血判書が発見されます。
(前川邸での拷問)
古高は、新選組が駐留する壬生の前川邸に連れて行きます。

前川邸の東の蔵では、土方歳三による古高俊太郎への拷問が行われます。東の蔵は2階の床の一部が開くようになっており、荷物昇降用の縄が梁から吊るされていています。古高はこの縄で2階から逆さ吊りにされます。
2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられるといったひどいもので、彼はついに、自白します。

(京都を火の海にし天皇を連れ去る計画)
古高が自白したその内容は,尊攘派熊本藩宮部鼎蔵らが中心となり,6月下旬の強風の日に、京都に火をつけ、その騒ぎの最中に中川宮(朝彦親王)を幽閉し,一橋慶喜京都守護職松平容保の暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るというものでした。

池田屋襲撃)
その夕刻、古高への拷問で事情を聞き出した新選組は、吉田稔麿北添佶摩宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20人あまりが集まった池田屋を,近藤勇ら数十人で襲い殺害します。これが、池田屋事件です。ちなみに池田屋は、古高俊太郎邸から北に500mほどのところにあります。

(つかまった1ヶ月後に斬首)
古高俊太郎がつかまったおよそ1ヶ月後の1864年7月20日禁門の変が起き長州藩が京都に火を放ちます。

このとき、古高俊太郎は六角獄舎に収容されていました。
京都に火が放たれ、獄舎の周辺に火災が延焼してきました。古高は、この火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、他の囚人32名とともに斬首されました。享年36。
こうして古高は、自らが支援した長州藩が起こした禁門の変が縁で命を落とします。
享年36。

<<古高俊太郎邸への行き方>>
阪急電車河原町」駅から約0.1Km
京阪電車祇園四条」駅から約0.2Km 
住所:京都府京都市下京区河原町通四条上る一筋目東入

新選組を一躍有名にした池田屋事件
その発端となった古高俊太郎邸跡にも
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