日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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京都島原にある「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑 ~ここで色々な尊皇攘夷運動の密議が重ねられました~

京都市下京区西新屋敷の一帯は、
かつて島原とよばれる花街でした。
そこで揚屋(現在の料亭にあたる店)として営業していたのが角屋(すみや)です。
角屋の前には「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑があります。久坂玄瑞が、この角屋で同志と尊皇攘夷運動の密議を
重ねていました。

久坂玄瑞
久坂玄瑞(1840~64)は、江戸時代末期の1840年天保11年)5月の、藩医・久坂良廸の三男として、長州国萩で生まれました。

1856年(安政3年)玄瑞は17歳の時に、九州の文化人や学者を訪ねる旅へ出ます。そして熊本で、尊王攘夷派の志士・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)に出会ったときに、宮部の友人で、尊王攘夷吉田松陰を紹介されます。
そしての松蔭の私塾「松下村塾」に入門します。ここで同じく尊王攘夷を志す高杉晋作と知りあいます。松下村塾で学んだ久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿の3人は、松下村塾の三秀と呼ばれています。


松下村塾に関しては下をクリックして御覧下さい。

吉田松陰の義理の弟に)

松陰は、玄瑞を高く評価し、自分の妹・文と玄瑞を結婚させます。つまり玄瑞は吉田松陰の義理の弟になったのです。
1859年(安政6年)に安政の大獄吉田松陰が刑死したあとは、玄瑞は、松陰の遺志を受け継ぎます。

こうして京都島原の石碑「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角谷」がある場所に、幕末には久坂玄瑞も度々訪れ、色々と策略をたてます。

久坂玄瑞が関与した事件)
京都島原の角屋で同志と尊皇攘夷運動の密議を重ねた久坂玄瑞は、江戸で高杉らとともに英国公使館焼き討ちしたり、下関を通過する外国船を砲撃を行うなど尊王攘夷運動を進めます。
また対薩摩藩工作活動として大坂の南御堂門前で長州藩士2人の割腹自殺を演出します。

禁門の変で死亡かぞえ25才)
1864年、朝廷がある京都の池田屋新選組長州藩士などを捕縛したり殺傷する池田屋事件が発生します。すると、長州藩は、これに対し同年1864年に京都御所に進軍する禁門の変を起こします。この戦いで長州藩は、薩摩・会津連合軍に大敗し、久坂玄瑞は、御所に隣接する鷹司邸で自刃します。このとき数え25才でした。

(松蔭、晋作とともに・・)
久坂玄瑞の墓は、数カ所ありますが、その1つ下関の櫻山招魂神社では、高杉晋作の墓と友に師・吉田松陰をはさんでいます。下の写真では、中央が吉田松陰、右が高杉晋作、左が久坂玄瑞の墓です。 

 

<<久坂玄瑞密議の角屋の石碑への行き方>>
京都島原を歩くと見えてきます
住所:京都府京都市下京区堺町(花屋町通

 京都島原にある久坂玄瑞密議の角屋、

ここで色んな事が画策されています。