JR下関駅から徒歩15分という場所にある日和山公園(ひよりやま こうえん)。
1922年(大正11年)2月14日に、大正天皇の即位を記念して、下関市内で最初にできた公園です。
この公園に、長州藩が生んだ維新の志士の1人・高杉晋作の大きな像があります。
日和山公園の急な階段を登り切って丘に到着すると、目に入るのが、この高杉晋作の
大きな像です。
おっさんと並べて見ると、その大きさがわかると思います。
この像は、高さが4.2メートル、3.7トンで、1956年(昭和31年)に、晋作没後90年を記念して建立されました。これ、実は備前焼でできている像です。
この晋作像は2代目で、初代は4.8メートルあったのですが、太平洋戦争中の金属供出で撤去されたそうです。
(見晴らしが非常によろしい)
日和山公園は、丘の上にあり、ここからの眺望は素晴らしいです。
下の写真は日和山公園からの撮影ですが、関門橋と関門海峡が見えるのがわかると思います。
こちらからの角度だと、武蔵と小次郎が戦った巌流島も見えます。
写真の奥は九州・福岡県北九州市門司です。
幕末の1863年、6月7日、高杉晋作は長州藩から下関の防衛を任せられ、その1つとして奇兵隊を設立します。
【奇兵隊結成について書いたブログはここ】
【奇兵隊発祥の地について書いたブログはここ】
奇兵隊は、町人や農民など誰でも身分を問わずに参加できる混成部隊で被差別部落の
の人たちも取り入れられていました。
奇兵隊は、下関の豪商・白石正一郎に資金的援助を受けていて、本陣も白石邸にありました。
奇兵隊は、最初は外国艦隊からの防備が主な目的でしたが、馬関戦争の敗北でその目的を討幕へと変えます。
1865年、第二次長州征伐の時には、高杉晋作は海軍総督として奇兵隊をはじめ諸隊の
指揮をとり幕府軍を撃退します。
【高杉晋作終焉の地について書いたブログはここをクリック】
(関釜連絡船の慰霊碑)
下関と言えばプサンへと向かう関釜連絡船がありますが、この日和山公園には、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月4日に、下関港を出発した関釜連絡船が敵の魚雷攻撃を受け沈没した船の慰霊碑がありました。
(桜の名所・日和山公園)
日和山公園は、桜の名所としても有名で、春は、約250本のソメイヨシノ、ヤマザクラなどが咲き、多くの観光客を楽しませます。
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