日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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6月1日、東洋1を誇る、福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)設置 ~戦後マリリンモンローも訪れました~

1936年(昭和11年)6月1日
東洋1を誇る水陸兼用の国際飛行場である
福岡第一飛行場=通称:雁ノ巣飛行場が設置されました。
(水陸兼用の国際飛行場)
1936年(昭和11年)6月1日、福岡市玄界灘に面した場所に作られた福岡第一飛行場、通称、雁ノ巣飛行場は、水陸兼用の飛行場です。
東京羽田に次ぐ2番目の国際飛行場です。

1937年(昭和12年)に帝国飛行協会が出版した航空年鑑の「本邦飛行場一覽」によると、開港から4ヶ月後の1936年(昭和11年)10月の段階で「東西550mの滑走路、南北800mの水上機用滑走区域」と記載されています。
雁ノ巣飛行場は、福岡 - 那覇 - 台北を開設し、翌年には、東京 - 福岡 -ソウル  -新京の急行便を開設しました。さらに1939年(昭和14年)からは鉄道を移設するなど大規模な拡張工事が行われ、総面積135平方メートル、滑走路は800m級2本の交差型となります。

1940年(昭和15年)に海軍大臣官房が出版した「海軍制度沿革 巻9」の1056ページには福岡第一飛行場設置の件」が記載されています。

(出典:「海軍制度沿革 巻9」:1940年(昭和15年海軍大臣官房出版:国立国会図書館アーカイブス:https://dl.ndl.go.jp/pid/1886715/1/556


また、1941年(昭和16年)に福岡市商工課が出版した「連雲港開港と博多港」という本の19ページには、福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)の定期発着度数が書かれています。

上海便、青島便、台湾便など発着便が2880あります。

【出典:「連雲港開港と博多港」1941年(昭和16年)に福岡市商工課が出版 国立国会図書館アーカイブhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1683557/1/15


また雁ノ巣飛行場では、当時エア・ガールと呼ばれた現在のフライトアテンダントもいました。
こうして雁ノ巣飛行場は、1,700mと1,300mの2本の滑走路を擁し、ここから朝鮮・満州・沖縄、台湾上海、南京、北京などへ運航する、東洋1を誇る国際空港となりました。
下は1945年(昭和20年)4月30日に米軍が撮影した雁ノ巣飛行場の航空写真です。

そして太平洋戦争がはじまると、雁ノ巣飛行場の近くには、博多海軍航空隊が設置されました。

(上2つの写真は、国土交通省九州地方整備局 国営海の中道海浜公園事務所より引用

https://www.qsr.mlit.go.jp/uminaka/profile/rekishi.html

 

終戦後、ブレディ基地(キャンプ・ブレディ)に!)

雁ノ巣飛行場は、終戦後には米軍に接収され、「ブレディ基地(キャンプ・ブレディ)」と言う名前になりました。

 

終戦直後に米軍が撮影した雁ノ巣飛行場のカラー映像がありました。
下をクリックして御覧下さい↓ アメリ国立公文書館に保管されていた映像です。

(マリリンモンローが訪問!)

1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争が始まると、雁ノ巣飛行場は、その地理的な
条件から第一線の基地となりました。
朝鮮戦争は1953年(昭和28年)7月27日に休戦となりますが、そのおよそ半年後の
1954年(昭和29年)2月1日、大女優のマリリンモンローがアメリカの大リーガーのジョーディマジオとの新婚旅行で来日します。
その時のニュース映像です。そして。2人は2月8日には福岡に移動し11日まで滞在します。
その間、2月10日には、マリリンモンローは、米軍の慰問として、ここプレディ基地を訪れ、米兵の大歓迎を受けています。
ちなみに、雁ノ巣飛行場近くにある西戸崎1丁目のメイン通りは「マリリン・ストリート」と言います。

(今はレクレーション施設に)
1972年(1977年)雁ノ巣飛行場の全施設が返還されますが、空港としては小さいため、飛行場としては使用されず、現在はレクレーション施設となっています。

かつて福岡に
東洋一の水陸兼用の国際飛行場がありました。
その雁ノ巣飛行場が設置されたのが6月1日です。