日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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6月4日 陸軍の撃墜王 小林照彦 航空自衛隊の練習機T-33を住宅地に墜落しないようにと、途中で脱出せずに操縦しそのまま殉職

1957年(昭和32年)6月4日、
航空自衛隊の練習機T-33が墜落します。
操縦していたのは太平洋戦争時、
陸軍の撃墜王で陸軍史上最年少の飛行隊長だった
小林照彦です。
小林は飛行機が住宅地に墜落し被害が出ないように
最後まで操縦し、そのまま命を落としました。

(帝都防空の要:陸軍調布飛行場

太平洋戦争も1944年(昭和19年)後半になると米軍による日本本土の空襲が本格化し、首都東京(当時は帝都)も空襲に襲われます。
この帝都の空を守ったのが、調布にあった陸軍飛行場から出撃する航空部隊でした。
下の写真が陸軍調布飛行場、現在は東京都の調布飛行場です。長い滑走路があるのが
わかると思います。

現在の調布飛行場は滑走路が南北に1本だけですが、戦時中はこのほか東西にもう1本あり、敵機が襲来すると飛行第244戦隊の三式戦闘機・飛燕や五式戦闘機が出撃していました。

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調布飛行場掲示板より】

(陸軍・三式戦飛燕)

この調布飛行場から防空のために出撃していたのが三式戦・飛燕。
飛燕は、1943年(昭和18年)に陸軍に制式採用された戦闘機で川崎航空機が開発・製造を行いました。当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機です。
飛燕は、アメリカ軍パイロットたちからは “Tony”のコードネームで呼ばれていました。

B29飛来の情報を受け、日本陸軍飛行第244戦隊は、陸軍調布飛行場から陸軍の三式戦・飛燕で迎撃に向かいます。

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府中市の白糸台掩体壕に設置されていた看板より】

(陸軍史上最年少飛行戦隊長)
本土防衛で飛燕を操縦士し、名をあげた名パイロットのひとりが小林照彦です。

小林は1920年大正9年)11月17日東京生まれ。陸軍士官卒です。
1943年(昭和18年)に戦闘機乗りとなり、教官職などを歴任した後、1944年(昭和19年)11月末、24歳のときに、日本陸軍史上最年少の飛行戦隊長となります。
そして小林は、飛行第244戦隊に着任し、飛燕に乗って本土防空を行います。

(体当たりでB29を撃墜し本人は生還)
1945年(昭和20年)1月27日には体当たりで、B-29 1機を撃墜します。このとき小林自身は、落下傘降下して擦過傷と打撲傷を負っただけでした。

下の写真は、1945年(昭和20年)5月に飛行第244戦隊本部小隊・小林戦隊長機の三式戦・飛燕の前にて、地上勤務者および仲間達との記念撮影された
写真です。小林は1番右にいます。

1945年(昭和20年)8月15日、小林は少佐で終戦を迎えます。
小林は、体当たりによるB-29の1機を含む、計12機の撃墜を記録しています。しかも落下傘による脱出を3回繰り返し、その都度生還しています。

(街を守るため、脱出せず殉職)
小林は、1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊が発足すると、同年9月4日付で3等空佐として入隊します。

そして航空自衛隊では、教官として働きます。
1957年(昭和32年)6月4日、操縦するT-33練習機「若鷹」が離陸直後に機体が不調になり出力と高度が上がらず低空飛行となります
小林は、このとき、同乗者の天野裕3等空佐を先に脱出させた後、練習機が市街地に墜落し住民に被害が出ないようにと、機を最後まで操縦した後に殉職します。享年36。
小林は2等空佐に特進しました。

・・・・ということで6月4日は、

かつての日本陸軍最年少飛行隊長の小林照彦が、
航空自衛隊入隊後、
街を護るために脱出せず練習機を操縦し殉職した日です。