太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月22日、
陸軍一式戦闘機・隼を操縦し
飛行第64戦隊、通称加藤隼戦闘隊を率いた
日本軍を代表するエース・パイロットの一人・
加藤建夫が死亡しました。
【出典:「軍神加藤少将写真伝記(昭和18年出版)30ページ:国立国会図書館ウェブサイトより軍神加藤少将写真伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
(陸軍一式戦闘機・隼)
陸軍一式戦・隼。連合軍が“Oscar”のコードネームで呼んだ「隼」は、「陸軍の隼、海軍の零銭」と呼ばれるほど太平洋戦争で大活躍した戦闘機です。
(加藤隼戦闘隊)
この戦闘機「隼」を操った名パイロットが、飛行第64戦隊長の加藤建夫です。
加藤建夫は1903年(明治36年)9月28日に北海道上川郡旭川村で生まれます。
下は1906年(明治39年)かぞえ4歳の時の写真です。
【出典:「軍神加藤少将写真伝記」(昭和18年出版)9ページ国立国会図書館ウェブサイトより軍神加藤少将写真伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
加藤建夫は、陸軍士官学校へと進みその後陸軍に入ります。
太平洋戦争が勃発すると飛行第64戦隊(通称:加藤隼戦闘隊)を率い、「隼」の操縦桿を自ら握って戦いました。
(ベンガル湾上で自爆)
しかし1942年(昭和17年)5月22日、ベンガル湾上空でイギリス空軍第60中隊のブリストル・ブレニム爆撃機1機を「隼」5機で追撃中に被弾し、海中に自爆し最期を遂げました(死因については諸説あり)享年38。
下は亡くなった1942年(昭和17年)5月22日の午後2時に撮影された写真で、加藤建夫が死ぬ直前に撮影されています。
【出典:「軍神加藤少将写真伝記」(昭和18年出版)42ページ:国立国会図書館ウェブサイトより軍神加藤少将写真伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
下の写真は、1942年(昭和17年)7月21日に撮影されたビルマのミンガラドン飛行場に、加藤建夫をはじめとした遺骨が到着した場面です。
【出典:「軍神加藤少将写真伝記」(昭和18年出版)42ページ:国立国会図書館ウェブサイトより軍神加藤少将写真伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
【加藤建夫少将死亡について報道する
当時のニュース映像)
(軍神とたたえられ)
加藤の生涯の総撃墜機数は18機以上といわれ、加藤は日本軍史上最多の7枚の感状を
受賞しています。また同時に戦闘機隊指揮官としても優れた指揮官でもあり生前より「軍神」と称えられていました。その死に対し陸軍中佐から2階級特進で戦死後に陸軍少将になりました。
加藤隼戦闘隊の物語は、本やレコードも発売されました。1944年(昭和19年)には『加藤隼戦闘隊』として映画化されました。
今回当ブログで紹介した、
昭和18年出版の「軍神加藤少将写真伝記」は、
オンラインで自由に見ることができます。
ここをクリックして御覧下さい。👇
・・・・ということで
5月22日は、
加藤隼戦闘隊の隊長・加藤建夫が死亡した日です。