
親日国として知られる台湾。
ここに神として人々から慕われている日本人がいます。「義愛公」として祀られている森川清治郎です。
(東石副瀬富安宮の義愛公)
台湾西部の沿岸部・嘉義(かぎ)。
木材や製糖業が盛んな産業都市である嘉義の沿岸部にある東石(とうせき)郷副瀬村に「東石副瀬富安宮」、通称「富安宮」という廟があります。
この廟に一人の日本人警察官が祀られています。この人は、森川清治郎(もりかわせいじろう)巡査で、「義愛公」と呼ばれています。
(警察官として統治間もない台湾に赴任)
森川清治郎は幕末の1861年、神奈川県に生まれます。
1897年(明治30年)、37歳のときに巡査として台湾に渡りました。
当時の台湾は、日清戦争で日本の領土になってまだ日が浅いため社会基盤も未整備で治安も悪い時期でした。
そのため警察官は、治安確保や行政からの命令の伝達、衛生管理、インフラ整備など多くの役目がありました。
(村民とともに歩んだ森川)
森川が赴任した当時、村は貧しく、農業生産も低い状態でした。
そこで森川は村人の食糧事情を改善するため、村人と一緒に鍬を持ち畑仕事を行い農業生産を上げるように尽力します。
また、字が読めない人が多かったので、寺子屋を設立し教科書を準備し、自分が教師になり村人に読み書きや算術を教えます。
さらに各家庭の周りに排水溝を掘らせ、汚水を流させ、疫病がはやらないように衛生環境の改善も行いました。
ある時、海の岩場に取り残されて身動きが取れなくなっている村人がいました。森川は、すぐに海に入り村人を助け、そのまま負ぶって、2キロほど離れた家まで送りました。
よくみると、その救助された漁師よりも森川の方が大怪我をしましたが、森川は最後まで村人を負ぶって家まで送りました。
年末には、村人に餅を分け与えて一緒に新年をむかえることもありました。
こうして森川は村に溶け込み村人達からは「大人、大人」と尊敬されていきました。
中国語で「大人」ターレンと言い、立派な人物のことを指します。
(草履)
下の写真を見て下さい。
これは1901年(明治34年)に警察官が集まったときの集合写真です。
みな革靴やブーツを履いていましたが、森川だけは村人が履いていた草履でした。
こんなところにも、村人に溶け込んだ森川の1面を見ることができます。

(漁業税)
1902(明治35)年、台湾で漁業税の徴収が決まります。この決定は、生活がいまだ苦しい村民にとっては大きな負担となる、まさに死活問題でした。
そこで森川は、嘉義庁東石港支庁に出向き、集落の現状を伝え、税の軽減を訴えます。
しかし、この森川の行動が「台湾総督府の政策を批判し村民を扇動した」とみなされ、戒告処分を受けてしまいます。
1902(明治35)年4月7日、一発の銃声が村に響きます。
森川は、村人の要望に応える事が出来なかった事に責任を感じ、村田銃の引き金を引き自決したのです。享年42。
この事件で台湾総督府は、森川巡査の訓戒処分を取り消します。そして台南州知事は警察官の鑑として森川巡査を表彰しました。
また、税金については、査定に誤りがあったという名目で村民全員が再申告した結果、従来と同様の税額で落ち着くことになりました。
こうして森川は、自分の身を犠牲にして村人を重税から守ったのです。
(伝染病)
森川の死から20年後の1923(大正12)年の2月5日、副瀬村の隣村で伝染病が発生します。
2月7日の夜、村に住む李九という人の夢に、黒マントを羽織った巡査が現れます。
夢に現れた巡査は「「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」と予防策を伝えました。
翌朝、李九はすぐに村民を集め、指示に従って対策を施しました。そのおかげで村は大きな被害を受けることはありませんでした。
村人たちはこの巡査が森川であると思い、森川が死んだ後もこの地を愛し、護ってくれていることに感謝しました。
そして、感謝の気持ちを込め神像を設けました。
森川巡査の恩情と献身的な取り組みに対し、森川は「義愛公」として祀られ敬われることとなりました。
台湾には義愛公の分霊が10カ所近くあるそうです。

★台湾で神様になった人がもう1人います。
下をクリックして御覧下さい
森川清治郎巡査。
このような方がいたことを忘れずに
語り伝えたいと思います。





