大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第43話は「資格と死角」です。平均視聴率は11.5%でした。
では、あらすじを見ていきましょう。
(公暁鎌倉へ戻る)
源実朝が描いた宋に渡る計画が失敗に終わった約2ヶ月後の1217年6月、前将軍・源頼家の息子で京の圓城寺で修行していた公暁が鶴岡八幡宮の別当として鎌倉へ戻ってきました。約6年ぶりです。
戻ってきた公暁を乳母夫の三浦義村が出迎え「鎌倉殿の跡を継ぐのは、若君の他はございません。」と持ち上げます。
すると公暁は「必ず鎌倉殿になってみせる。」とやる気満々です。公暁の父は実朝の兄・頼家で前の鎌倉殿。実朝に子どもがいない今、公暁が鎌倉殿の四代目を継ぐのは
異論がないと公暁も義村も思います。
(次の鎌倉殿になるはずが・・・)
翌日、三浦義村は公暁を北条義時のもとへ連れて行きます。義村は「若君は、頭も切れ剣の腕も無双だ。さすがは、頼朝さまの血筋だ。鎌倉殿は、子も側室も持たれない。次の鎌倉殿に決まりではないのか。」とほめちぎります。
しかし義時は義村に「次の鎌倉殿は京よりお招きする。」と伝えます。この話を聞いた義村は驚き、そして納得出来ません。
また政子は、次の鎌倉殿を京都から迎えるという実朝案を鎌倉殿になる気満々の公暁に伝えることができません。
そしてある日、実朝は公暁と面会し「私は大御所となり、そなたには鶴岡八幡宮別当として、新しい鎌倉殿の良き相談相手、そして力になってもらう。」と告げます。
鎌倉殿になると思い込んでその気になっていた公暁はこの話を聞き唖然とします。
鶴岡八幡宮に戻ったあと、公暁は憤りました。
義村にとっても公暁が鎌倉殿になれば、三浦家がのし上がる大チャンスなのに、それがなくなれば、その野望が打ち砕かれます。
(養子を阻止したい)
公暁は、まもなく1000日の間、寺に籠もって祈願する千日参籠を行う予定です。
三浦義村は、公暁に「千日参籠の間に実朝に考え方を改めるように説き伏せる」と約束します。
千日参籠の間、堂内に入ることができるのは世話役の稚児だけで、その稚児に
三浦義村の息子・駒若丸が就くことになりました。
公暁が寺に籠もっている間に、義時と義村、実朝の乳母・実衣の3人が集まり、実朝が抱く構想=京都から養子を迎え次の鎌倉殿にするという話を覆すことはできないかと考えます。
義村は、養子が帝の子だったら納得するといいますが、内心は公暁が鎌倉殿になることを願います。
さて、この「京都から鎌倉殿を迎え実朝を大御所に」という策は政子が考えたのですが、反響や反発が予想以上に大きくてどうしたらよいのか大江広元に相談します。
相談を受けた広元は「私は、頼朝さまに呼ばれてここに参りました。鎌倉殿は、頼朝様から頼家様。実朝様と移り変わりました。それでも、変わらないのは尼御台でございます。尼御台は、今後もご自分の思った道を突き進むべきでございます。」と言い政子の考えに同意します。
(上皇の息子を次の鎌倉殿に)
そしてある日、実朝が関係者を集めます。この席には千日参籠を中断した公暁も加わります。
実朝は、皆に京都から次の鎌倉殿を迎える事を告げます。
しかし義時は「ここはもう一度、我ら宿老が時をかけて話し合うべきではないでしょうか?」と言い、実衣も「鎌倉殿にお子がいなくても、公暁殿もいれば、うちの息子だっているのですから。」と反対の声をあげます。
※実衣は源頼朝の弟・阿野全成との間に阿野時元をもうけていて、この人は源氏の血筋で、頼朝の甥であるとともに鎌倉殿・実朝のいとこです。
反対意見が出る中、北条泰時が後鳥羽上皇から届いた文を公表します。
そして実朝は「上皇様は、親王様の中から誰かを遣わしても良い、と仰せだ。」と言います。
後鳥羽上皇の息子が源実朝の養子になり次の鎌倉殿になるわけです。
これは皇室と鎌倉の一体化です。鎌倉将軍に皇室の血筋が入るのです。この話を聞いた義時と義村は、形上は歓迎したふりをします。
そしてこの話をまとめるため、政子が京へ向かうことも決まりました。
会が終了し皆が解散した後、三浦義村は弟の胤義に「俺は認めん。三浦がはい上がる
最後の好機なんだ。なんとかしなければ。」と耳打ちします。義村は必死です。
(京都で)
翌年1218年、政子が上洛しました。政子はこの上洛に蹴鞠の名手である弟の北条時房を同行させます。実はこれが良い結果を生みます。
院の御所で後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子と対面した政子は、最初はぎこちなかったものの次第に意気投合し話を進めます。
今の天皇は、実朝の養子候補の1人である頼仁親王の兄で、その皇后は現在妊娠しています。この流れから言うと、生まれた子供が次の天皇になる可能性が高いため、頼仁親王が皇位につくというのは難しい状況です。そこで、政子は、頼仁親王には、その代わりに鎌倉殿を継いでほしいといいます。
さらに政子は、頼仁親王が鎌倉殿となった場合には、兼子にも最高の礼を尽くすと約束します。この案に兼子も良い感じです。
(蹴鞠が結んだ縁)
一方、後鳥羽上皇と慈円は、政子と同行して京へ来ていた北条時房が鎌倉一の蹴鞠の名手だという話をします。
さて、時房が、御所の庭でたたずんでいると、鞠が転がってきました。
時房がその鞠を拾うと、後白河法皇が登場し毬を蹴ってほしいと声をかけます。この時、時房はこの男性が後白河法皇とは気が付きません。
やがて時房と後白河法皇はお互いに見事な蹴鞠を披露し合います。
そして後白河法皇は「見事じゃ!」と言い時房に歩み寄りました。しかし、後白河法皇だと知らぬ時房は普通の態度で接します。
さらに「形ばかり気にする都の方にしては、たいした技だ」と親しげに上皇の肩をたたきます。その瞬間、兵士たちが飛び出してきて時房をねじ伏せます。
すると慈円が「こちらは上皇様であらせられる。」と言い、時房は驚いてひざまづき、無礼な態度を侘びます。
上皇は、時房を気に入ったらしく「“トキューサ”と申したな?」「いずれまた、勝負しようぞ。“トキューサ”」と言い、そばにいた慈円に「慈円僧正、我が最愛の子たる親王を鎌倉に与える話、早く決めてやれ。」と伝えます。
芸は身を助ける・・まさにこれです。
蹴鞠が結んだ縁、、古くは中大兄皇子と藤原鎌足の例がありますが、今回も蹴鞠です。
こうして実朝の次の鎌倉殿は、後白河法皇の息子・頼仁親王に決まりました。
そして実朝は親王の後見人として左大将に任ぜられます。左大臣就任・・・これは実朝の父・頼朝でさえかなわなかったことです。
(源仲章の野望)
実朝は源仲章に「太郎(北条泰時)も何かの官職に推挙してやりたい」と言い、仲章は「菅原道真公と同じ讃岐守はいかがでしょう?」とこたえます。
その直後、廊下を歩く義時に仲章が話しかけます。
仲章は「頼仁親王様が鎌倉殿になられたら、この源仲章が関白になろうか」とまで言いだします。京から迎えた養子が次の鎌倉殿になれば・・・と源仲章は野心満々です。
(父子意見一致)
その夜、義時が息子の泰時のもとにやってきました。
そして「讃岐守のこと、断ってもらいたい。」と言います。
義時は「いずれお前は執権になる。お前なら『私が目指していてなれなかったもの』になれる。」と言い、いずれ源仲章が泰時の前に立ちはだかるので今は源仲章に借りを
作るなと忠告します。
それを聞いた泰時は「ご安心ください。私も讃岐守はご辞退しようと思っていたところです。」と応えます。
義時と泰時の考えが一致しました。
帰りかけた義時に泰時が「父上が『目指してなれなかったもの』とはなんですか?」
と問います。
しかし、義時からの返答は、ありませんでした。
(真実を知る)
自分が次の鎌倉殿になるために戻って来たのに、その可能性が0に近づいたことで公暁は気分が晴れません。
そして「頼仁親王が実朝の後継者になった」という話を知り三浦義村を呼びつけます。
公暁が「私が鎌倉殿になる芽は摘まれたということか?」と尋ねると義村は「若君が
鎌倉殿になれば、必ず災いが降りかかる。これでよかったのです。」と言います。
公暁は「どういう意味だ?」と聞きます。
公暁は父・源頼家の死の本当の事を知らなかったのですが義村がここでバラします。
義村は公暁にこう言います。「あなたの父上は殺されたのです。北条義時は、頼家様を亡き者にし、扱いやすい実朝様を鎌倉殿に仕立て上げました。」。
これを聞いた公暁に幼いときに出会った老婆が話した「北条を許すな!」と言う言葉を思い出します。
真実を知り怒る公暁に対し義村は「北条を許してはなりません!そして、北条に祭りあげられた源実朝もまた真の鎌倉殿にあらず!」と言いあおります。
仲が良いように思えた義時と義村・・ここで義村の裏切りです。
(最悪の事態の序曲)
2ヶ月後、北条政子が鎌倉に戻ってきました。
その後、鶴岡八幡宮で実朝の左大将の拝賀式を、さらにその1ヶ月後、同じく鶴岡八幡宮で実朝の「直衣始めの儀式」が行われました。
公暁は、その源実朝の姿をじっと見つめていました。その視線は冷たく怒りに満ちていました。
まもなく「あの日」がやってきます。