日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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9月16日 エルトゥールル号遭難事件 ~日本人は素晴らしい!遭難した言葉も風習も違うトルコ人に対し自分たちの身を削り懸命に救助した和歌山串本町大島村の人達~


9月16日、和歌山県串本町沖で

オスマントルコ帝国の軍艦が遭難します。

その知らせを受けた和歌山県串本町大島村の人達は、
懸命に救助活動を行います。
さらに救出した乗組員に、
自分たちの貴重な食料や衣類も提供するなど
献身的に介護します。

 

はじめに::トルコの漢字表記は、「土耳古」です。
戦前、日本では外国の国名や都市名を漢字で表記していました。
また中国語表記では「土耳其」です。
ですからトルコ軍は「土耳古軍」「土耳其軍」あるいは「土軍」などと表記していました。

 

エルトゥールル号来日)
1890年(明治23年)6月7日、オスマントルコ帝国海軍の木造軍艦・エルトゥールル号が横浜港に到着しました。

オスマン海軍少将一行は、明治天皇に謁見し、アブドゥルハミト2世皇帝より託されたトルコ最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈します。さらに両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えました。これに対し、明治天皇は、使節に勲章を授け、饗宴を賜いました。

使節団一行は、東京に3か月滞在しますが、その間、官民を挙げての大歓迎を受けます。下はエルトゥールルの乗組員の集合写真です。

(出典:土耳其国軍艦エルトグルル号89ページ:1937年出版:国立国会図書館デジタルアーカイブス https://dl.ndl.go.jp/pid/1154226/1/89


エルトゥールル号遭難)

9月15日、エルトゥールル号は、横浜港を出港し帰国へと向かいます。

この時期は台風シーズンでした。
16日に、エルトゥールル号串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、台風に遭遇します。そして、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には船が沈没し、600人以上の乗組員が夜の海に投げ出されます。
下は後日、発表された遭難現場の写真です。

(出典:土耳其国軍艦エルトグルル号90ページ:1937年出版:国立国会図書館デジタルアーカイブス https://dl.ndl.go.jp/pid/1154226/1/90

樫野埼灯台へ)

海に投げ出された乗組員のうち、数人が樫野埼灯台の近くに流れ着き、灯台の明かりを便りに灯台にたどりつきます。

(出典:土耳其国軍艦エルトグルル号91ページ:1937年出版:国立国会図書館デジタルアーカイブス https://dl.ndl.go.jp/pid/1154226/1/91

このとき灯台には、従業員2名が働いていました。彼らは突然やってきた外国人に驚きますが、すぐに遭難と気がつき、灯台がある大島村樫野地区の区長に連絡をします。
しかし、遭難した相手はトルコ人であり、こちらは日本人。お互いの言葉が通じません。
そこで国際信号旗を使って、遭難した船が、オスマントルコ帝国の軍艦であることがわかりました。

オスマントルコの軍艦遭難」という知らせは、区長から和歌山県などに伝えられていきます。

(村を挙げての救助活動)
翌日9月17日午前11時半、村の医者3人を交えた大島町住民が、総動員で、遭難したエルトゥールル号の乗員の救出活動を行います。
救助には子どもから大人までが参加し、生存者がいないかどうか、台風で荒れる海に飛び込み、確認作業をおこなったそうです。
海岸には大勢の遺体が打ち上げられましたが、その中には生存者もいました。村人は生存者を見つけては、浴衣などの衣類を与えます。また、息絶えないように自らの体温で温める人もいたそうです。
住民達は生存し乗組員に米、卵、鶏などの食料を与えます。この時期は、台風で出漁できないので、住民達にとっては食料の蓄えもわずかでした。しかし、彼らは見知らぬ異国の遭難者のために、その貴重な自分たちの食料を惜しみなく提供したのです。

こうして乗組員656名中、69名が樫野にある寺や学校、灯台に収容され生き延びました。
また、不幸にして亡くなってしまった乗員に対して村民たちは、その遺体を手厚く葬ります。

日本政府は海軍の通報艦八重山を派遣します。

(出典:土耳其国軍艦エルトグルル号91ページ:1937年出版:国立国会図書館デジタルアーカイブス https://dl.ndl.go.jp/pid/1154226/91

 

さらに、この知らせを知った日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられました。この救援活動はトルコ本国に伝えられ、トルコ国民が日本に対し、親愛と感謝の念を抱き続けることとなりました。


結局、司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明、生存者は、
わずかに69名という大惨事となりました。
そして、後日、死亡者に対し合同葬儀が行われました。


69名の生存者は神戸で治療を受けます。下は、神戸での生存者を写した写真です。

(出典:土耳其国軍艦エルトグルル号92ページ:1937年出版:国立国会図書館デジタルアーカイブスhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1154226/92


その後、生存者は同年10月5日、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦で帰国の途につき、翌年の1月2日、無事イスタンブールに入港します。

 

(土国軍艦遭難之碑)
遭難の翌年2月には、遭難海域を眼下に見下ろす、殉難将士の遺体が埋葬された樫野崎の地に、地元有志により「土国軍艦遭難之碑」が建立され、1928年(昭和3年)8月6日に、大阪日ト貿易協会の発議で第1回遭難追悼祭が催されました。

エルトゥールル号遭難事件に関しては、
1937年(昭和12年)に発行された

「土耳其国軍艦エルトグルル号」があり、
デジタルで無料で見ることができます。

(85年後のおかえし)

さて、それから時が過ぎて1985年(昭和60年)、当時はイラン・イラク戦争の最中です。3月17日、イラクサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を出しました。
この知らせを耳にしたイラン在住の日本人は、急いでテヘランの空港に向かい出国しようと試みます。
しかし、どの飛行機も満席で搭乗することができません。このとき、日本政府は、航行の安全が確保できないとの理由で救援機を派遣しなかったのです。こうして日本人は、テヘランの飛行場に取り残されてしまい、どうすることもできない状況に陥りした。

そんな時、トルコ共和国が救援機2機を提供してくれました。この飛行機で日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。これはタイムリミットのわずか1時間前のことでした。

当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、トルコ政府は貴重な航空機を日本人に提供し、自国民であるトルコ人は陸路で避難をしたそうです。

このトルコの行為に対し、後日、駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」と。

 

 

 

・・ということで、
9月16日は、エルトゥールル号遭難事件が起きた日です。