太平末期の末期の10月12日、
自分の戦闘機が攻撃を受けたにもかかわらず、
住民がまきぞいになることを避けるため、
人気が少ない場所まで飛行機を移動し脱出。
落下中に狙撃され亡くなった戦闘機乗りがいます
(台湾沖航空戦)
1944年(昭和19年)10月12日から16日までの5日間は日米両国が激しく戦闘を繰り広げた台湾沖航空戦が行われます。
(杉浦機被弾)
10月12日午前、杉浦茂峰・兵曹長(戦死後に少尉昇進)は、零式艦上戦闘機三二型に、搭乗して台湾沖航空戦に出撃します。
杉浦茂峰(すぎうら しげみね)兵曹長は、1923(大正12)年11月9日茨城県水戸に生まれます。海軍乙種飛行予科練に入隊し、霞ヶ浦海軍航空隊で基礎訓練を受けたあと、
台湾に配属されました。
杉浦機は、被弾し出火、機体爆発が迫ります。
杉浦は「今、飛行機から脱出したら生き残るチャンスがあるかもしれない、しかし、下には何百もの木造家屋があり、戦闘機が落ちたら民間人に大きな被害が出る。」と考え、集落への墜落を避けるため郊外の人気が少ない場所まで飛行します。
そして、無事飛行機を人気がない郊外まで操縦した後、機体が爆発する直前に落下傘で脱出します。
しかし、落下傘で降下する途中で、米軍機の機銃掃射を浴び 死亡します。享年20。
(飛虎将軍廟)
集落を救うために、自分の生命を犠牲にしてを守った杉浦の行為に感謝し、地元の方々が杉浦を恩人として、1971(昭和46)年に杉浦茂峰を祀る祠を建設しました。
その祠は1993(平成5)年には鎮安堂飛虎将軍廟に建て直されました。 「飛虎」は戦闘機を意味し、「将軍」は杉浦茂峰氏への尊称です。
現在、管理人が毎日朝夕2回、杉浦が好んだ煙草に火をつけ、神像と写真に捧げています。会場では、朝に「君が代」と昼に「海ゆかば」を放送しています。
この話は、下の本の
「第10章 台湾で神になった日本人兵士―台南市・飛虎将軍廟を護る人々」に書かれています👇
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日本本土でも、
同じように自分の命を捧げて住民を守った軍人がいます。下をクリックして御覧下さい👇
飛行機を乗り捨てていれば命は助かったかもしれないのに、集落を護った杉浦茂峰。
彼は、地元の人々に敬意をもって崇拝され、小学校の教科書にも載っています。
・・・・ということで10月12日は、
のちに台湾で神になった「飛虎将軍」
杉浦茂峰が自らの命を捧げ街を守った日です。