日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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2月25日 202機撃墜した海軍最強の戦闘機乗り 零戦虎徹・岩本徹三、初陣!

日中戦争当時の1938年(昭和13年)2月25日、
中国戦線で1人の飛行機乗りがデビューします。

初陣ながら見事に4機を撃墜した彼は、その後、
終戦まで日本海軍のエースとして第一線で活躍します。
通算で202機を撃墜し
「海軍最強の戦闘機乗り」と呼ばれた
零戦虎徹・岩本徹三です。

(天下の浪人 零戦虎徹
下の写真、何か気になりませんか?そうです髪の毛・・・軍隊なのに丸刈りじゃないんです。彼は丸刈りを拒否し長髪、そして背中に「天下の浪人 零戦虎徹」と書かれたライフジャッケットを着こなしていました。
最強の撃墜王と呼ばれた日本海軍戦闘機隊エース・岩本徹三です。
数々の敵機を撃墜し、彼が乗るゼロ戦は撃墜した敵機の数を示す桜のマークが60以上におよび、そのピンク色で埋め尽くされます。

日本海軍のエース・パイロットといえば、坂井三郎、西沢広義、杉田庄一などが知られていますが岩本は1938年(昭和13年)の日中戦争から終戦までの8年間を、常に第一線で戦い抜いた唯一のエースで、「大空のサムライ」こと零戦乗りの坂井三郎が、最も傑出した零戦搭乗員として挙げた人物です。

下士官ながら金鵄勲章を授与)

この男・岩本徹三は1906年(大正5年)樺太生まれ。航空隊に入り、整備体に配属され、志願して戦闘機乗りになります。その初陣は1938年(昭和13年)2月25日、23才で中国戦線の南昌空襲でデビューし、いきなり4機を撃墜します。岩本は日中戦争では14機の最多撃墜数を公認されて、下士官としては異例の金鵄勲章を授与されます。

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ラバウル航空隊のトップエース)

太平洋戦争が始まると1943年(昭和18年)11月、岩本は、南方の最前線の地・ラバウルに現われます。このとき28才。

岩本はラバウル到着1週間後に、すでに出撃し7機を撃墜。隊全体で52機を撃墜する第戦果を挙げています。
12月には単体でブーゲンビル島のタロキナ飛行場へ攻撃に出かけ20機以上の米軍飛行機を機銃掃射で破壊しています。
このように岩本はラバウルでトップ・エースとして敵戦闘機を次々と撃墜していきます。
連合軍はラバウルを「竜の顎」と呼び、竜に似た地形と同時に岩本率いる日本海軍最強部隊のラバウル航空隊の存在を恐れます。

(戦法)
岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはないが、エンジントラブルだけはどうしようもない。」と語っています。
岩本は編隊による優位な位置からの相手を攻撃した後にすぐさま退避するという一撃離脱戦法を多用していました。
また電波もうまく活用していました。戦闘機のモールス電信で友軍機との連携を心がけ連絡を取る一方、基地司令部との交信で来襲情報を把握し戦闘の指揮をしていました。さらに米軍機の短波無線の機上電話を傍受し、その電波の強弱によって敵との距離を推測したうえで戦っていました。
ラバウルで、日本軍の撃墜記録を報告する岩本の後ろ姿が当時のニュース映像に見ることができます。

岩本はラバウルで自身の撃墜数を142機とし、ラバウル着任3か月後に、日本に戻り、そして終戦を迎えます。

敵機撃墜202機という日本海軍のエースで
虎徹の異名を持つ岩本徹三は、
2月25日に中国戦線でデビューしました。