日中戦争当時の1937年(昭和12年)
左翼の3分の1以上を失いながらも
巧みな操縦で基地に生還した飛行機乗りがいます。
(初陣で2機撃墜)
樫村寛一は1913年(大正2年)生まれ。1933年(昭和8年)に呉の海兵団に入団し、翌年2月に霞ヶ浦航空隊に入隊します。
日中戦争がはじまった1937年(昭和12年)10月に樫村が所属する第十三航空隊が上海、広大飛行場に拠点を置きます。
11月22日、樫村は初陣として南京爆撃の護衛に出撃し2機を撃墜します。
(片翼帰還)
同年12月9日、江西省の南昌に敵機が集結との知らせを受け、戦闘機8機と爆撃機が出撃します。このとき樫村寛一は愛機・九六式艦上戦闘機の乗り込み出撃します。
南昌到着直前に、敵機が姿を見せたため空中戦が始まります。
梶村は敵機1機を撃墜したものの、その後、別の1機と空中衝突し、九六式艦上戦闘機の左主翼の3分の1以上を失います。
やがて樫村機はキリモミ状態になり落下しますが、墜落する直前に、樫村はたくみな操縦技術で下降を止め、水平飛行に戻します。
以後、左に傾こうとする愛機のバランスを保つため、身体を傾け体重を移動し、バランスを調整しながら600キロの道のりを2時間ほどかけて操縦し上海を目指します。
上海の広大飛行場上空に到着します。しかし、左翼の3分の1以上を失いバランスがとれていない状態での着陸はうまくいかず何度もやり直します。
結局、左側に傾いた状態で強行着陸します。飛行機は転覆して大破しました、しかし、樫村寛一三等航空兵曹は機体から這い出して無キズでした。
(片翼帰還の樫村)
梶村の帰還は大きく新聞を飾りました。そして「片翼帰還の樫村」としてその名が全国に轟きます。
樫村寛一には特別善行章一線が付与されました。また、下士官としては異例の功五級金鵄勲章が授与されました。
(原宿海軍館に展示)
破損した樫村寛一三等航空兵曹の愛機・九六式艦上戦闘機は、東京原宿にあった海軍館に運ばれ、終戦時まで公開展示され、多くの人が見物に訪れました。
下の写真は昭和天皇に、山本五十六が飛行機の説明をする様子です。
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その後も樫村は、飛行機乗りとして活躍しますが1943年(昭和18年)3月6日、ラバウルで出撃したあと戻る事はありませんでした。
左翼の3分の1を失っても、バランスをうまく取り、
そのまま操縦して生還した樫村寛一。
実に素晴らしい飛行テクニックです。