2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。
では第3回「千客万来『一目千本』」のストーリーを見てみましょう。
(「吉原細見」完成)
東京吉原は、江戸幕府公認の遊郭ですが、吉原よりも安く遊べる、無許可で営業を行う「岡場所」(おかばしょ)や、宿駅にある休憩施設の「宿場」(しゅくば)にいる「飯盛女」(めしもりおんな)と呼ばれる遊女に、客が流れてしまいました。
客が減ると、そこで働く遊女たち、とくに下流の遊女たちの生活は苦しくなります。
そこで蔦屋重三郎は、吉原に客が来るようにして遊女たちの生活水準を向上させようと考え、吉原の見所などを記載したガイドブック「吉原細見」を刷新します。
こうして平賀源内が、「嗚呼御江戸 序」を書き、蔦屋重三郎が、足で取材し遊女たちの内容を最新情報にした「吉原細見」が完成しました。
『細見嗚呼御江戸』は、下をクリックすると見ることができます。
『細見嗚呼御江戸』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200020645
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020645/1?ln=ja)
(お披露目)
吉原の女郎屋や引手茶屋は、「吉原細見」が発行されるたびに、一定部数を買い取り、なじみの客に配っていました。
そのため「吉見細見」を発行している鱗形屋にとって「吉原細見」は、一定部数えを確実に買い取ってもらえるために安定した収入が見込めるもの=必ず儲かる商売でした。
さて、駿河屋で「吉原細見/細見嗚呼御江戸」お披露目をしました。
それを手に取った親父達は、「吉原細見」の「嗚呼御江戸」を書いたのが福内鬼外、すなわち、あの平賀源内であることを知り、驚きます。
なお、平賀源内が書いた「細見嗚呼御江戸 序」の文章がありましたので紹介します。
(『細見嗚呼御江戸』(国文学研究資料館所蔵)出典: 国書データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020645/1?ln=ja)
【平賀源内が書いた部分は、現代語訳すると以下の内容です】
「女衒、女を見るには法あり。一に目、二に鼻筋、三に口、四にはえぎわ、次いで肌は、歯は、となるそうで、吉原は女をそりゃ念入りに選びます。とは言え、牙あるものは角なく、柳の緑には花なく、知恵のあるは醜く、美しいのに馬鹿あり。
静かな者は張りがなく、賑やかな者はおきゃんだ。何もかも揃った女なんて、まあいない。それどころか、とんでもねえのもいやがんだ。骨太に毛むくじゃら、猪首、獅子鼻、棚尻の虫食栗。ところがよ、引け四つ木戸の閉まる頃、これがみな誰かのいい人ってな。摩訶不思議。世間ってなあ、まぁ広い。繁盛、繁盛、嗚呼御江戸。」
この「吉原細見/細見嗚呼御江戸」は吉原の親父達の間で好評でした。しかし、この本に蔦屋重三郎がかかわっていることを知ると、駿河屋市右衛門は激怒します。
蔦屋重三郎は、「おやじさんに拾われていなければ死んでいた身ですから。そんな奴があれこれやっているのが気に食わないんでしょう」と鱗形屋に愚痴をこぼします。
(評判は良いのだが・・・)
この「吉原細見/細見嗚呼御江戸」が世に出ると、巷でも評判が良く、本はよく売れました。
この本は、田沼意次のもとにも届きます、そして、この本の仕掛け人の名前を見て「ああ、あの、ありがた山の寒がらすか」と思い出します。しかし、本が売れるのにも関わらず、最大の目的である吉原に客が戻る気配がありません。
そのため、蔦屋重三郎は、どうすれば吉原に客足が増えるか、次の策を考えます。
(養子を所望す)
一方、江戸では、白河松平家から田安家に、田安家当主・治察の異母弟・田安賢丸を養子に欲しいという話が持ちかけられていました。
「田安家」は、「一橋家」、「清水家」とともに徳川将軍家の後継者対策のために創設された「御三卿」(ごさんきょう)の1つで、もし将軍家に跡継ぎが生まれなかった場合には、その後継者を提供する役目を担っていました。
白河松平家から養子に欲しいと言われた田安賢丸は、一橋徳川家の嫡男・豊千代(のちの11代将軍・家斉)の誕生を祝う宴が江戸城で行われたときに「武家の本分は学問、武芸。娯楽にうつつを抜かすなど恥を知れ」とタンカを切った少年で、のち松平定信です。
田安賢丸に対し「養子になって欲しい」という話は、これまでもありましたが、田安家は断っています。
しかし、今回は、田沼意次が、10代将軍・徳川家治に「あのような優れた方が、生涯無官なのは惜しい。白河藩松平家への養子の話、今一度検討してくださらないか」と働きかけたため、将軍直々の養子入りを促された形となりました。
これではなかなか、断れない状況です。
田安家では、賢丸を養子に出すかについての会議が開かれました。
田安家初代当主で治察の父の徳川宗武の正妻・宝蓮院が「甘言にございます!上様は、われら田安を退けたいのです」と怒りをあらわにします。
なお、宝蓮院の実の子は治察1人です。賢丸は父・徳川宗武の側室の子です。当時は一族の血を絶やさずに子孫をたくさん作るのが大きな役目でした。
賢丸は「兄上にお子が生まれるまでは、まさかのことがあったときに備えねば」と養子に行くことを渋りますが、治察は、「私にまさかのことがあったときは田安に戻れるよう話を通している」と答えます。
こうして、養子縁組はまとまります。
(長谷川様から50両)
「吉原細見/細見嗚呼御江戸」は評判が良く、本が売れますが、客足は回復せず吉原の状況は悪化していきます。こうなると下流の店は苦しくなります。
「二文字屋」の女将きくは、店を畳むと言い出します。
この店は、蔦屋重三郎の幼少期に世話をしてくれた遊女の朝顔が最後にいた店です。
二文字屋をなんとか守りたいと考えた蔦屋重三郎は、花魁の花の井に協力を頼みました。
すると花の井は、長谷川平蔵を松葉屋に呼び、「入銀本」(にゅうぎんぼん)の話を持ち掛けます。
入銀本とは、遊女の絵姿を集めた本でグラビア集のようなものです。納める金額によって遊女たちの掲載順が決まります。つまり、1番多くのお金を集めた遊女がトップを飾るのです。
そこで、花の井は、今度、吉原で入銀本を作るんだけど、自分がトップを飾りたいので資金を出してほしいと長谷川平蔵と訴えます。
そして、長谷川平蔵は言われるまま、50両を用意しました。
蔦屋重三郎は、その50両をそのまま二文字屋のきくに渡しました。このお金で遊女たちは命拾いをしました。
まあ、だましたわけですが、蔦屋重三郎は、本当に入銀本を作ることを考えます。
(入銀本を作る)
そして、吉原に客を呼び寄せるためには、本屋には売っていない本、しかも吉原に足を運ばなければ手に入らないという希少価値を持たせた本を作ることを思いつきます。
本を作るにはその費用が必要なので、本に名前を出したい遊女達から金を集めて制作する、自費出版式の入銀本を制作しようと考えたのです。
こうして入銀本の話を吉原の遊女達に触れ回ります。さらにトップを飾りたいという遊女たちの競争心を煽り大金を集めます。
そして資金が確保できた段階で、蔦屋重三郎は、集まった吉原の親父さん達を前に「金ならあります。親父さんたちはビタ一文払わなくていいんです」と言い、この入銀本を作ることを認めるように頼みます。
「負担金が不要」ということで親父達は賛成しようとしますが、蔦屋重三郎の育ての親である駿河屋だけが、いい顔をしません。怒りだし蔦屋重三郎を追い出します。
追い出された蔦屋重三郎を、「二文字屋」の女将きくが 引き受けます。
細見は売れている。しかし吉原に客が来ない。そこで蔦屋重三郎は、「読むだけで終わらずに吉原に行きたい」となるにはどう工夫したらいいかを考えます。
(遊女を花に見立てて)
蔦屋重三郎は、入銀本の絵師には、それにふさわしい最高級の人物が必要だと考え、絵を見比べながら、北尾重政(きたおしげまさ)を選びました。
しかし、遊女たちをただ紹介するのでは何の工夫もないし、刷り絵では、人物の違いを描きにくいので、何かいい方法がないかと考えます。そして、遊女達を花に見立てて紹介することを思いつきます。
「つんとしている女郎はワサビの花。」
「無口な女郎はくちなしの花」
」筆まめな女郎はカキツバタ」など考えます。
そして絵師の北尾重政に、吉原の遊女たちを花に見立てて描いてもらいました。
こうして、入銀した120人の女郎達を花に見立てた入銀本作りが始まりました。蔦屋重三郎も、彫師や摺師の作業を行い、二文字屋の遊女達も製本を手伝ました。
こうして、入銀本「一目千本」(ひとめせんぼん)が完成しました。
下が「一目千本」です。「画師 北尾重久」「彫刻 古澤藤兵衛」のあとに「蔦屋重三郎」の名前があるのがわかります。
(出典『一目千本』(大阪大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース, doi.org/10.20730/10008)
「一目千本」の中身をご覧になりたい場合は下をクリックしてどうぞ。
(駿河屋の気持ち)
蔦屋重三郎は、皆の思いが詰まった「一目千本」をさっそく駿河屋に届けに行きます。しかし駿河屋市右衛門はその受け取りを拒否します。
駿河屋市右衛門は、蔦屋重三郎の才能を認めていて、自分の店を継がせたいと考えていたため、茶屋の仕事を継いで欲しい、他の仕事に現を抜かすんじゃないと思って蔦屋重三郎の行為を素直に受け入れることができませんでした。
蔦屋重三郎は、駿河屋に「一目千本」をそっと置いて立ち去りました。
のちに「一目千本」が評判になると、駿河屋市右衛門は、思い出したように「一目千本」に目を通し「粋なことするじゃねえか」と目を細め、その実力を認めます。
(吉原に来なければ・・・)
蔦屋重三郎は、「一目千本」を、女郎屋や引手茶屋に置きます。
さらには男性が集まる風呂屋などに置くように頼みます。ただし、ここに置くのは見本で、「中身を読みたければ吉原に来るように」という仕掛けをしました。
配本から6ヵ月後、「一目千本」を見た客が、吉原に押し寄せるようになりました。
遊女を花に見立てた戦略が粋だと評判を呼び、「くちなしの妓に会ってみたい」「くずの花の人はどこだ」と男性たちの興味を引きました。作戦成功です。吉原に活気が取り戻されました。
しかし、この状況に「吉原細見」を作っている鱗形屋は険しい目つき・・何やらおきそうです。
一方、花の井に50両を出した、長谷川平蔵が、「親の遺産を使い果たしたため、会いに行けない」という手紙が届きました。
(切れた操り糸)
また、江戸城では、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の父・治済が、操っていた人形の糸が切れ「おお、糸が切れてしまったなあ」というシーンが登場します。
治済は、息子で15歳で第11代将軍に就任した徳川家斉の父として介入をしていた人です。その治済のこの演技。。。何かおきそうですね。。次回に続く・・
<<おまけ>>
吉原遊郭があった地域を歩きましたが、
そこには当時の名残が残っていました。
<吉原神社>
<吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮>
<見返り柳>
この3つは、すべて歩いて行ける距離にあります。
吉原は京の島原(京都市下京区)、
大坂の新町(大阪市西区)と並んで
三大遊廓と呼ばれていました。
京都島原遊郭跡地は行ったことがあります。