新撰組局長・近藤勇の生家、神社、撥雲館が東京調布市野水にあります!!
近藤勇は、江戸時代末期の1834年、現在の東京都調布市野水に生まれます。
その後、近藤家に養子入りし近藤勇と改名しました。
(生家跡地)
当時の生家があったころは、生家跡地として残されています。
生家跡地は、調布市の野川公園の駐車場入口のすぐ近く、人見街道沿いにあります。
当時の生家の写真は、看板に残されています。
生家は、当時は7千平方メートルという広大な広さを持つ屋敷で母屋、蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋などがあり周囲はケヤキやカシ、竹が茂っていた
そうです。
近藤が使用したという井戸も残されています。1943年(昭和18年)まで使用されていたそうです。
(新撰組局長)
近藤勇は、武芸の能力にすぐれ15歳の時に天然理心流試衛館に入門し腕を磨き、翌年には目録を受けとります。
1863年、江戸幕府が、将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のために「浪士組」の募集した際に、近藤勇は試衛館の土方歳三など8名を連れ参加し上京します。
その後紆余曲折を得京都守護職・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の保護下に置かれ、やがて「新撰組」が誕生します。
近藤勇が新撰組局長、土方歳三は副長となり、京の治安維持と、討幕運派の取り締まりを行います。
【新選組幻の駐屯地について書いたブログはここ】
(池田屋事件で脚光)
池田屋に集まり討幕運動を画策した長州藩士などを新撰組が襲撃した有名な「池田屋事件」。新撰組の名を一躍有名にしたこの池田屋事件には、近藤勇と沖田総司が襲撃に
参加しています。
【池田屋を訪れた時のブログはここ】
【沖田総司について書いたブログはここ】
(その後の近藤勇)
大政奉還後、近藤勇は旧幕府軍とともに鳥羽・伏見の戦いに参戦しますが、新政府軍に敗れ江戸へ行きます。
その後、近藤勇は新たに甲陽鎮撫隊を結成し幕府軍として戦いますが敗走し、千葉県流山で新政府軍に降伏します。
近藤は斬首され、その首は京都に送られ三条河原で3日間さらし首になりました。享年35。
(近藤神社)
現在、生家跡地の隣には、軍人が昭和の戦前に作った近藤神社が建てられ、近藤勇が
祀られています。
(近藤勇の武芸を受け継いだ撥雲館)
道路を挟んだ向かい側に、木造の建物があります。
この建物が新撰組局長の近藤勇が学んだ「天然理心流」を受け継ぐ
道場「撥雲館(はつうんかん)」です。
・・・ということで、調布市野水にある新撰組局長の近藤勇関連施設の紹介でした。
<<近藤生家への行き方>>
JR三鷹駅から鷹52系統「榊原記念病院行き」または「朝日町三丁目行き」「車返団地行き」バス乗車、「野川公園入口」バス停下車で徒歩1分
住所:調布市野水1-6-8
今回はさらに追加・・・
(近藤勇が一時身を寄せた 多宝山成願寺)
東京中野区には、幕末には一時、近藤勇とその家族が身を寄せていた。多宝山成願寺があります。
【多宝山成願寺について書いたブログはここです】
(近藤勇の墓)