1724年11月22日、浄瑠璃および歌舞伎の作者、近松門左衛門が亡くなりました。
(上方文化の担い手の1人)
徳川時代になり、戦のない平和な世が続き、物の流通が盛んになり、江戸、京都、大阪は賑わいを見せます。
全国から集められた米や特産物が取り引きされ天下の台所と呼ばれていた大阪、天皇が住む御所を中心とする上方では、都市の繁栄を背景に経済力を持った町人を担い手にする新しい文化=元禄文化が栄えます。
その文化の担い手の1人が近松門左衛門です。門左衛門は現実に起きた物語を元に浄瑠璃や歌舞伎の台本を書きます。
1685年に門左衛門が描いた「出世景清(しゅっせかげきよ)」は、近世浄瑠璃の始まりといわれます。
また、1703年に上演された「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」は門左衛門の代表作として人気を集めました。
門左衛門はその後も「冥途の飛脚(めいどのひきゃく)」や「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」といった大ヒット作を生み出し、1725年旧暦11月22日に72才で亡くなりました。
(聞いたことがあるけど内容は知らない門左衛門の作品)
日本史の教科書で見たことがある近松門左衛門。
実際にどんな作品を書いたのか、簡単に紹介します。
【曽根崎心中】
金銭トラブルを抱えた役人の徳兵衛と女郎のお初が、愛し合うものの最後は心中してしまう物語。実話に基づいていて、発表後、心中事件が増えたため、江戸幕府から上演禁止の命令を出されることもありました。
【国性爺合戦】
中国人の父と日本人の母を持つ鄭成功(国性爺)が、中国王朝の復活を目指す作品。
鎖国政策で海外の情報が少ない当時、中国が舞台となっているこの作品は大人気となります。
【冥途の飛脚】
商家の養子が、大名に届けるはずだった300両を遊女を身請けするために使ってしまう話。
(門左衛門の墓)
近松門左衛門の墓は大阪市を歩いているときに偶然発見しました。
近松門左衛門の墓は、以前は大阪市中央区谷町の妙法寺にありました。
しかし1967年(昭和42年)に谷町筋拡張工事に伴って法妙寺が大東市へ移転することに
なりますが、門左衛門の墓はその場に残されることになりました。
その後しばらくは放置されていましたが、1980年(昭和55年)に大阪市や住吉名勝保存会の協力で、整備されました。
なお、上町筋から谷町筋に抜ける通称「楠木通り」には「近松門左衛門墓」と記された黒い案内板がありました。しかし、ここからは近松の墓には行けません。
これでは、肝心の近松門左衛門の墓がどこにあるのかわかりません。
よくわからない看板です。
尚、近松門左衛門の墓は兵庫県尼崎市久々地の「広済寺」にもあります。
【公益財団法人 住吉名勝保存会HP 近松門左衛門の墓】
【大坂市中央区オフィシャルサイト地域情報ポータルサイトHP】
<<近松門左衛門の墓への行き方>>
谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前
住所:大阪市中央区谷町8丁目
・・・ということで
11月22日は近松門左衛門が死亡した日です