2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。
2025年(令和7年)9月14日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第35話は「間違凧文武二道」(まちがいだこぶんぶのふたみち)」です。
それではストーリーを見て行きます。
(「文武二道万石通」)
田沼意次が失脚し、1787年(天明7年)6月19日。松平定信が老中首座に抜擢されます。老中デビュー、しかもいきなりトップの老中首座です。
老中首座の松平定信が掲げたのが「質素倹約」。自分の祖父である8代将軍・徳川吉宗の世に倣い、質素倹約を推し進めます。情報操作により世間の評判もいいようです。
①朋誠堂喜三二『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくどおし)
③山東京伝『時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)』
と豪華な狂歌絵本=狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』喜多川歌麿・画
の4冊が出版されました。
年が明けてしばらく経ったころ、松平定信が、ある書物を手にとっていました。
朋誠堂喜三二が書き、重三郎が世に出した『文武二道万石通』です。
この物語は鎌倉時代、源頼朝に請われ、忠臣・畠山重忠が鎌倉武士たちを「文に秀でた者」「武に秀でた者」「何の役にも立たぬ、ぬらくら者」に分けるという内容です。
忠臣・重忠の絵には松平家の家紋である「梅鉢」が入り、定信は、「ぬらくら」は土山宗次郎ら田沼派をモデルにしていると受け止めます。
定信は、「蔦重大明神がそれがしを励ましてくれているということ!大明神は私がぬらくら武士どもを鍛え直し、田沼病におかされた世を見事立て直すことをお望みだ!」と言い、自らの政治が認められていると思い込みます。
さらに定信は、朱子学者・柴野栗山をブレーンに加え、徳川家斉に紹介します。
そして弓術指南所の設置や湯島聖堂の改修に乗り出します。
(制作意図に反して)
黄表紙『文武二道万石通』は大ヒットします。
重三郎の店には『文武二道万石通』を求める客が長蛇の列を作り、大盛況となります。さらには製本が間に合わず、紙束をそのまま渡すほどです。
重三郎や妻のていも、この売れ行きに驚きますが、重三郎の思惑は外れ、読者の多くは、「田沼派=ぬらくら」と捉え定信を持ち上げる内容をそのままに受け止め、定信をからかうという本来の意図が伝わりません。
同時に出版した、歌麿の「画本虫撰」は、安く作られている良質の本であるために「倹約令様々」と定信に感謝するようになりました。
こうして、重三郎が出した書物は、意に反して、松平定信の政を応援する流れになっていったのです。
さらにこの時期に、定信は、将軍が成人するまで代わりに政を行う「将軍補佐」となり、ますますヒーロー扱いされていきます。
(出会い)
ある日、歌麿は突然の雨に見舞われます。このとき、一人の女性が境内の空き地で洗濯物を取り込んでいる様子を目にし、歌麿は手伝います。
この女性は、かつて歌麿が枕絵に挑戦しようとして苦しかった過去を思い出し、幻覚にあい、苦しんだ廃寺で、歌麿が捨てた絵を拾い集めてくれた女性です。
歌麿は、この女性に「俺のことを覚えてます?」と問いますが、この女性・きよは、自分の耳を塞ぎ、首を横に振りました。耳が聞こえないのです。
さらに、きよは、胸元に入れてい紙を差し出しました。
そこには「きよ 一切 二十四文」と書かれていました。きよは、歌麿が自分を買うのだと勘違いしていました。
きよは「洗濯女」と呼ばれる、洗濯を生業としつつも、それでは生活が苦しいので身体を売っていたのです。
歌麿は、会話ができないならと得意の絵でコミュニケーションをとろうとします。
真っ黒に塗りつぶした絵と風呂敷の絵を描いて意思を伝えると、きよは歌麿のことを思い出します。
そして、歌麿は、きよをモデルに絵を描きます。こうして歌麿は再会した耳の不自由な女性・おきよと心を通わせていきます。
(恋川春町の苦悩)
松平定信がもてはやされる流れの中、重三郎は喜三二ら戯作者たちを交え作戦会議を開いていました。
重三郎は、次に作る作品は、もっと皮肉を分かりやすくしようと考えていました。
その会議の中で、春町は12月に出した自身が手がけた『悦贔屓蝦夷押領』の売れ行きがよくないと、いじけています。
春町の主君は、定信の改革について「志はご立派だが、はたしてしかと伝わるものなのか」と危ぶんでいます。
その読み通り、耕書堂の黄表紙と同じく定信の真意が、武士たちの中には、伝わっていないものもいました。
侍は、文武に励むことにはせずに、威張り散らしますし、さらに知ったかぶりをするものも現れます。
(田沼意次死す)
そこへ大田南畝がやってきました。1788年(天明8年)7月24日、田沼意次が、蟄居のまま江戸で息を引き取ったというのです。享年70。最近の大河ドラマでは、このような死ぬシーンを見せるのではなく「ナレーション死」がよくあります。
宿敵・田沼の死を聞いた松平定信は田沼意次の葬列では「投石を許せ」と命じます。
(歌麿、所帯を持つ)
数日後、歌麿がおきよを連れて重三郎の屋敷にやってきました。
歌麿は、鳥山石燕の訃報を伝え、遺作「雷をあやつるあやかし」を見せます。
さらに歌麿は「蔦重、俺、所帯を持とうと思って。」と伝え、お清を紹介します。
続けて「俺、ちゃんとしてえんだ。ちゃんと名を上げて、金も稼いで、おきよにいいもん着させて、いいもん食わせて、ちゃんと幸せにしてえんだ。」
そして、以前は描けなかった春画を披露し、自身の苦しい過去を乗り越えられたのは、きよのおかげだと話し春画を見せます。です。
歌麿の春画を見た重三郎は、その完成さに見入ってしまいます。
重三郎は、きよに「おきよさん、ありがた山にごぜぇます!こいつにこんな絵を描かせてくれてありがた山です!こりゃ間違いなく、こいつを当代一に押し上げる、この世でほかの誰にも描けねぇ絵です!」と言い、祝儀の意味も込めて、百両で歌麿の枕絵を買い取りました。
(届かぬ思い)
数日後、老中首座の松平定信の耳に、将軍・徳川家斉が大奥の女中と子供を作っていたことが入ります。
将軍に子どもができるのは喜ばしいことですが、松平定信は、将軍には勉学に励んでほしいと思っているようです。
家斉は、「余は子作りに秀でておるし、そなたは学問や政に秀でておる。それぞれ努めればそれで良いではないか。」と言い出します。
将軍の父・一橋治済もまた、政は誰にでもできる、跡継ぎを作ることは将軍にしかできないと言います。
このとき定信は、治済の豪華な能装束についても苦言を呈しますが、相手にされません。松平定信の政が少しづつ空回りの様相を見せはじめていました。
(「鸚鵡言」)
松平定信のブレインである栗山は、定信に心得を作るようアドバイスし、みずから漢文の講釈まで施すと申し出ます。こうして作られた定信の書「鸚鵡言(おうむのことば)」は、武士の教本として写し読まれるようになりました。
その中の「政のこと」という段にある「紙鳶(たこ)を上ぐるに外ならぬ、治国の術はもとあるを知るべし」というひと節に注目が集まりました。。
政は「時」と「勢い」と「位」の3つをはかるのが肝要であり、それを凧(紙鳶)をあげる様子に例えています。しかし、、この言葉だけをとらえて「凧をあげれば国が治まる」と武家の子息には伝わっていました。
(「鸚鵡返文武二道」)
このことにピンときた重三郎は、これを皮肉ったパロディ本を出そうと思いつきます。
こうして『鸚鵡言』のパロディとして、恋川春町の「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」が完成しました。
この『鸚鵡返文武二道』は、今までよりも風刺を効かせた内容になっていました。これを見たていは「これはからかいすぎではないか」と心配します。
しかし皆は「これはからかいではなく、諫めのつもりだ」と語ります。
そこへ次郎兵衛が、定信が黄表紙の大ファンであり、重三郎や春町の作品も愛読しているという知らせが入ります。それを聞き、出版を決意しました。
(倹約も行き渡らず・・)
一方、自分の祖父である8代将軍・徳川吉宗の世に倣い、質素倹約を推し進めていた松平定信ですがなかなか容易には行きません。大奥や一橋家の放漫な暮らしに悩まされていました。
そこで栗山の助言を得て、定信は『御心』や『老中心得』など、政治理念を伝えるための文書を作成します。
日本橋にある重三郎の店には新作の黄表紙や錦絵が並びました。
恋川春町の「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」もその1つです。
そして、時代は天明から寛政へ。
1989年(寛政元年)元日の空。
空高く舞い上がった一枚の凧が静かに落ちてきます。これは重三郎の落ちていく運命を暗示しているのでしょうか。
次回に続きます。
<<おまけ>>
蔦屋重三郎に関する地域を歩きましたので紹介します。
<吉原>
【吉原神社】
【吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮】
【見返り柳】
<重三郎が構えた日本橋耕書堂跡>
<<蔦屋重三郎の墓標>>
・・・ということで
2025年(令和7年)の大河ドラマ「べらぼう」
第35回「間違凧文武二道」(まちがいだこぶんぶのふたみち)」の紹介でした。