(義烈空挺隊とは)
義烈空挺隊は1944年(昭和19年)11月に結成されました。
当時サイパン島が陥落しB-29による首都圏への爆撃が可能になったため、サイパンに空挺部隊を乗せた航空機で強行着陸し、敵の軍用機を破壊する奇襲作戦が計画されます。
この空挺隊は当初は「神兵皇隊(すめらたい)」と名付けられ、隊長には挺進第1連隊から奥山道郎大尉が選ばれます。また、この部隊には陸軍中野学校出身の諜報員10名も含まれていました。
彼らは、強行着陸後に破壊活動を行ったあとも現地に潜んでゲリラ戦を行い、敵に多くの損害を与える事が任務となりました。
空挺隊を運ぶのは第6独立飛行隊で、隊長には諏訪部忠一大尉が選ばれました。
1945年(昭和20年)神兵皇隊は、名称を「義烈空挺隊」に変更しました。
しかし戦況の悪化で目標地がサイパンから硫黄島、さらに沖縄へと変更になりました。

(沖縄の飛行場に殴り込みをかけろ!)
1945年(昭和20年)4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始し、その日のうちに北飛行場(後の読谷補助飛行場)と中飛行場(現:嘉手納飛行場)の両飛行場を占領します。
それに対し軍上層部からは「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との要請がありました。
そこで、厳しい訓練を受けた義烈空挺隊が沖縄の北・中飛行場へ強行着陸し、破壊活動を行い攪乱している間に、陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が計画されました。
さらにその第2段階として、義烈空挺隊は、米軍が占領した飛行場を破壊した後には、北飛行場の東北約5キロの地点にある「220・3高地」付近に向かいゲリラ戦を展開することも計画されていました。そのため、土地勘がある沖縄出身の兵士も含まれていました。それは山城金栄准尉(九番機に搭乗し飛行場で戦死)と比嘉春弘伍長(ひき返した十一番機に搭乗、生還)の2人でした。
(熊本健軍飛行場から沖縄に出撃)
「義号作戦」の任務遂行のため義烈空挺隊と、飛行機操縦を担当する第3独立飛行隊が、熊本の健軍飛行場へと集結します。
義烈空挺隊の隊員は出撃までの2週間ほどを熊本市の健軍飛行場で過ごしました。
当時の健軍飛行場は原っぱで現在の熊本日赤病院があるあたりです。

作戦の決行日は当初は5月22日が予定されていましたが、天候不良のため2度延期されます。
義烈空挺隊を率いるのは、写真中央の奥山道郎隊長です。
出撃を直前に控え握手を交わす奥山隊長と諏訪部編隊長。
1機の爆撃機に義烈空挺隊員14人が乗り込みます。
午後6時40分、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃します。
下の写真は機上で手を振る奥山隊長です。
目指す目的地は約750キロ離れた沖縄です。

当時、義烈空挺隊が出撃した滑走路は現在の赤十字病院と熊本県立大学の間の通りという説と、赤十字病院の裏の道路と言う説があります。
こちらが、赤十字病院と熊本県立大学の間の通り

一方こちらが、赤十字病院の裏の通り。

【義烈空挺隊の出撃を報じる当時のニュース】
(沖縄に強行着陸)
こうして1945年(昭和20年)5月24日午後6時40分、12機の爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃しましたが、沖縄に向かう途中で、故障などの原因で爆撃機4機が引き返します。
同日午後10時11分、そ奥山隊長機から突入を知らせる無電「オクオクオク オクオクオク ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」との入電があり、8機が、北、中両飛行場に
突入を試みます。
午後10時25分には九七式重爆撃機4機が飛行場近くで撃墜されています。
結局、1機が北飛行場に胴体着陸します。
突入に成功したのはこの1機だけで、残る7機は途中で撃墜されました。

沖縄に強行着陸した隊員たちは、機体から飛び出し、留めてあった米軍の飛行機を破壊します。
米軍側の被害は戦死者2人、飛行機33機の損失でした。
この攻撃で北飛行場は翌25日午前8時まで使用不能となりました。

【沖縄に強行着陸した後の九七式重爆】
翌日の昼、空挺隊員の1人が飛行場から1キロ離れた道路をはっているいるところを米軍に射殺されています。彼は読谷山岳に集結して、ここからゲリラ戦を展開しようとしていたのです。
義号部隊は総勢168人のうち、引き返した4機に乗っていた56人を除いた112人全員が
死亡しています。沖縄出身で義烈空挺隊最年長31歳の山城金栄准尉も戦死しました。

(熊本市、陸軍自衛隊健軍駐屯地)
義烈空挺隊が出撃した熊本市の健軍飛行場。
当時、その隣には、三菱重工業・熊本航空機製作所、のちの第九製作所がありました。
下が1943年(昭和18年)当時の現地の状況です。

三菱重工業・熊本航空機製作所では、四式重爆撃機・飛龍が終戦まで42機作られました。

健軍駐屯地内には、その三菱重工業・熊本航空機製作所の建物が今も残り、使用されていました。

(義烈空挺隊慰霊碑)
1957年(昭和32年)三菱重工業・熊本航空機製作所跡地に陸上自衛隊健軍駐屯地託麻原分屯地が開設されました。
その後、健軍駐屯地となりましたが、その一隅には「義烈空挺隊之碑」があります。
今回、健軍駐屯地の協力で、駐屯地内の碑を参拝できました。


動画でどうぞ👇
この碑は、義烈空挺隊の生存者である熊本県在住の村上信行氏(元陸軍中尉)が発起人です。
動画でどうぞ👇
「義烈空挺隊之碑」の除幕式は1965年(昭和40年)7月28日に行われました。
石碑は高さ約50㎝厚さ約20㎝の御影石で作られており、義烈空挺隊突入の地、沖縄の北・中両飛行場跡地から採取された霊石が祀られています。
石碑は後に空港の一角が住宅地となる為、健軍駐屯地内に移設されました。
碑の裏には亡くなられた隊員の方々の名前が記されています。
(北飛行場跡地にある義烈空挺隊玉砕の地)
義烈空挺隊が突入した北飛行場があった場所にもいきました。
そこは、義烈空挺隊玉砕の地碑が建っています。

地元の方によると、この碑は1973年(昭和48年)に建てられましたが、昔は玉砕の地碑は違う場所にあったそうです。2010年(平成22年)8月、読谷中学校の建設に伴い読谷掩体壕前に移設されました。
本来、義烈空挺隊が玉砕したのは、ここ周辺ではないかと言う事でした。
(義烈空挺隊の碑)
糸満市にある平和祈念公園のなかには、義烈空挺隊の碑があります。


さて、話を義烈空挺隊出撃の地
熊本市の健軍飛行場に戻します。
ここから沖縄の地に向かい出撃した義烈空挺隊。
その慰霊碑が、出撃した健軍飛行場の近くにできた
陸上自衛隊健軍駐屯地内にあります。

<<義烈空挺隊慰霊碑がある陸軍自衛隊健軍駐屯地>>
車で行きましょう
住所:熊本市東区東町1丁目1-1
義烈空挺隊の慰霊碑がある陸上自衛隊健軍駐屯地では
出撃の日である、5月24日の前後に、
全日本空挺同志会熊本支部が主催して
「義烈空挺隊出撃慰霊祭」が執り行われています。






