【最初に、このブログにて使用する写真に関して】
1956年(昭和31年)12月31日までに公表された写真の著作物については、旧著作権法(明治32年)の規定により、「創作後10年、公表後10年経過すると消滅している」と考えられます。それに従い、当ブログにて使用する満州国の写真に関しては著作権は消滅しています。
10月17日は、1967年(昭和42年)のこの日
清朝最後の皇帝であり
満州国の皇帝にもなった
愛新覚羅溥儀が死亡した日です。
(「我が半生」)
おっさんは、中学の夏休みに父親の本棚にあったある本を読みました。
本の題名は「我が半生」。作者は、愛新覚羅溥儀。
この本は、愛新覚羅溥儀の生涯を描いた自伝です。
「我が半生」は、上巻と下巻からなる長い本でした。
溥儀は、まず1908年に第12代の清朝の皇帝に即位します。この時は2歳です。
しかし1911年に中国で起きた辛亥革命で退位させられたます。
その後、天津の日本租借地に身を移しますが、1932年(昭和7年)3月1日に日本軍と協力し満州国の執政になり、2年後には皇帝になります。
この時、昭和天皇がわざわざ東京駅のホームに出迎えに来るという有史以来の
最恵国待遇を受けます。
日本の天皇がわざわざ相手を迎えに行くということは史上初であり,
今までも含めて史上唯一の出来事です。
1940年(昭和15年)6月には、皇紀2600年を記念して2度目の来日をします。
この時も昭和天皇は東京駅に出迎えに行ってます。
2度も天皇が駅で出迎えたのは、溥儀ただ一人です。
しかし太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に大栗子という都市で満州国皇帝を退位し、敗戦後はソ連に連れ去られます。
そして終戦の翌年1946年(昭和21年)3度目の来日をします。
この時は東京裁判が開かれていて、溥儀はその証人として来日したのです。
その後、中華人民共和国の収容所で暮らし、ようやく一市民として開放され北京の植物園で働く・・という激動の人生でした。
清朝の皇帝、クーデター、満州国皇帝、終戦、収容所生活、一般市民・・・溥儀と言う人は、歴史という大きな激流に巻き込まれ、飲み込まれ生きてきた人なんだなあと感じました。
その後、1987年(昭和62年)には「ラストエンペラー」と言う映画で、
この溥儀の生涯が全世界に紹介されました。
(満州国)
愛新覚羅溥儀が執政、その後皇帝となった満州国は、1932年(昭和7年)3月1日に
建国されました。
首都は、新京(かつての「長春」を改名)、のちに1945年(昭和20年)のソ連参戦後は「通化」に遷都します。
そしてその年の8月18日に満州国は解体します。
というわけで、満州国はわずか13年ほど存在した国です。
満州国では「大同」と「康徳」という2つの年号が使われました。
溥儀が執政だった1932.3.1~1934.2.29「大同」で、帝制移行後の1934.3.1~1945.8.18が「康徳」です。
通貨も紙幣も切手も独自で発行流通させていました。
下が満州国の国旗です。
1950年には中華人民共和国に送られ撫順の戦犯管理所に収容されます。
そして9年後に釈放され一般人になります。
(溥儀死亡)
ようやく収容所から出て自由になったものの、
1967年(昭和42年)には、肝臓がんを患います。
当時中国では、文化大革命の真っ最中で、
病院は、元清朝の皇帝の溥儀を診ることが、紅衛兵に狙われることになるのではと恐れ、
溥儀を受け入れることに及び腰で、さらに、ようやく入院できた病院でも
紅衛兵の妨害で治療が遅れました。
そして1967年(昭和42年)10月17日、溥儀は亡くなります。
享年61、文字通りの激動の人生でした。
溥儀は、死の間際に、日清食品のチキンラーメンが食べたいと希望したそうです。
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(参考文献)
満州国とその時代を調べたいときは以下の本が参考になります。
【満州帝国】
【「人はわれを漢奸と呼ぶ 王兆銘伝」】
【映画「ラストエンペラー」DVD】
・・・ということで10月17日は
愛新覚羅溥儀が死亡した日です。