宮崎県中北部の街・日向市(ひゅうがし)の美々津(みみつ)に海軍発祥之地碑が
あります。
(日向市美々津にある「海軍発祥の地碑」)
宮崎県日向市美々津。日向灘に面したこの町は、かつて貿易で栄え、今も残る昔の町並みは、“重要伝統的建造物群保存地区”に指定されています。
その美々津の昔の町並みが残る地区の、その先にある海沿いに、高さ10mを超える石の塔が建っています。
結構大きいです。
波の形をしている石の塔で、宮崎市にある「皇軍発祥之地碑」や「八紘一宇の塔」と同じく日名子実三のデザインです。
塔の前面には「日本海軍発祥之地」と刻まれています。この文字は、当時の内閣総理大臣で海軍大将であった米内光政の書です。
米内光政は海軍大臣も務めます。
塔の側面には「内閣総理大臣 海軍大将 米内光政」と刻まれています。
また塔の正面には古代の船の模型が飾られています。
(なぜ美々津??)
なぜ美々津が海軍発祥の地なんでしょうか。
古事記・日本書紀のいわゆる「記紀」には神武天皇は、西暦紀元前666年8月1日に
日向の国(現在の宮崎県)から東征したことが記述されています。
古事記では・・
「何れの処にいまさば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむと思ふとのりたまひて、即ち日向より発ちて筑紫に」
日本書紀では・・
「冬十月丁巳の朔……日向より諸皇子・舟軍(ふないくさ)を率いて東征」
記紀には、その東征に出発した港が美々津だとは書かれていませんが、
日向の伝承では神武天皇の軍はここ美々津の港で船に乗り瀬戸内海を経て紀伊半島に
上陸し奈良の樫原に向かったという伝承があります。
そのため、ここ美々津の港から出発した水軍は天皇の下で行動をした最初の海軍であるということで、皇紀2600年にあたる1941年(昭和15年)に“皇紀2600年”を祝う行事の一環として日本海軍発祥の地となりました。
そして2年後の9月10日に「日本海軍発祥之地」碑が建立されました。
宮崎県美々津は室町時代以降から古くから貿易港として栄え日明貿易も行われていた
そうです。
港は賑わいをみせ明治・大正期にかけて廻船業を中心に賑わっていました。
そのため廃藩置県のときには一時「「美々津県」が置かれていました。
(船の名前は「おきよ丸」)
神武天皇が美々津からに出航した時に乗っていた船は「おきよ丸」と言う名前の船です。
この船の名前の由来は、出港しようとしたものの天候が思わしくなく待っていたところ、急に天候が回復し、予定を早めて寝ていた村人を「起きよ!」と起こし廻ったことから、付いたそうです。その日は旧暦の8月1日の深夜2時だったそうです。
(美々津に残る神武東征に由来するもの)
この神武天皇の東征に由来するものが美々津にあります。
まず美々津の「おきよ祭り」。「おきよ祭り」は、 旧暦の8月1日の夜に子どもたちが
短冊飾りがついた篠を手にもって各家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いて回る祭りです。これは、天候が回復し神武天皇の東征が急に決まったため村人を「起きよ 起きよ」と起こしたことに似ていますね。
さらに、美々津の特産に「つきれい餅」という「餅とあんこを一緒に混ぜたもの」があります。
これは、地元住民が神武天皇にあんこが入った餅を献上しようと準備を進めていたところ、出発が早まったため、時間がないので餅と小豆をつきまぜて献上したと言われます。
また、神武天皇は出発の用意をする中で、着物のほころびに気付いたものの、時間がなく衣服を脱いで繕う暇がなかったので、立ったままでお付きの者が服を縫ったそうです。そのためここ美々津のことを、別名で「立縫いの里」と呼ぶそうです。
(お船出再現)
1940年(昭和15年)4月18日に、皇紀二六〇〇年記念を祝し、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社が主催し、神武天皇が船出したという「おきよ丸」を作り、地元宮崎の青年150人が古代船を漕ぎ、美々津港から大阪中ノ島まで「神武天皇の船出」を再現しています。
そして一行は、奈良の樫原神宮で神楯を奉献しています。
今回、おっさんは郷土史家の先生とこの海軍発祥の地に行きました。
その先生から当時の様子を伝える貴重な写真を2点紹介していただきました。
<<日本海軍発祥之地碑への行き方>>
美々津駅から車で10分、徒歩25分
住所:宮崎県日向市美々津町