皇紀2600年=1940年(昭和15年)11月25日、
天孫降臨の地・宮崎市で
八紘之基柱(=八紘一宇の塔・平和の塔)が
完成し、竣工式が行われました。
(八紘之基柱)
この塔は、現在は、「平和の塔」、あるいは「八紘一宇の塔」と呼ばれています。
しかし戦前・戦中は、「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)と呼ばれていました。
この塔の正面には「八紘一宇」の文字が刻まれています。
この塔の高さは36.4メートルで、当時、日本で1番高かった丸ビルを超えます。今でも遠くから目立つ大きさで、おっさんが宿泊した宮崎市内のホテルの8階からも見えました。
この塔は、神道で使う御幣を形どっていて、設計は大分出身の彫刻家・日名子実三が
担当しました。
塔建設から80年以上たっても、がっしりしています。
(正面に刻まれた「八紘一宇」)
塔の正面には、当時の天皇の弟で、大正天皇の次男の秩父宮が書かれた「八紘一宇」の文字が刻まれています。
このことば・「八紘一宇」は日蓮宗の宗教家・田中智学の造語です。
田中智学は1913年(大正2年)3月11日「国柱新聞」に連載していた「神武天皇の建国」で「八紘一宇」を使用しています。
田中は、日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」 に書かれている「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。) の「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」のスローガンを
造語しました。
さらに1925年(大正14年)3月27日、陸軍が主催した軍事教育講習会では「神の國」と題した講演を行い、「八紘一宇とは 六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為す すなわち万邦を一つの家にする。八紘一宇。すなわち世界統一だ」と述べています。
【田中智学に関しては下をクリックしてどうぞ】
この塔が完成した1940年(昭和15年)=皇紀2600年8月、近衛首相が基本国策要綱で
大東亜新秩序を掲げ「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく 建国の意味)の大精神に基」と述べています。
つまり、この塔は、正面にこの時代を象徴するスローガンを刻んでいるのです。
(塔に置かれた4体の像)
塔の四隅には信楽焼で造られた、農業・武道・商業・漁業に関する像が4体置かれて
います。
こちらが塔の正面。
逆光で暗いですが、こちらが塔の裏面です。
また、この塔がある芝生の部分の面積は紀元2600年に合わせて2,600坪あります。
(塔の礎石)
この塔の土台となった部分には、縦45センチ、横60センチの石が、1789個集まって
構成されています。
おっさんは、1時間ほどかけてこの石を1つ1つ見てまわりました。
石には、送り先の名前が刻まれていて 石が送られてから80年が経過した今でも、送り先名を判別することができます。ただ建設から80年以上が経過し、さすがに石に刻まれた文字が風化し読みにくくなっています。
1789個の石のうち、1485個には、送った団体名が記載されています。
(石の内訳)
日本及び宮崎県内から…1417個
中国…198個
朝鮮…123個
台湾…40個
樺太…1個
パラオ…1個
カナダ…3個
アメリカ…2個
フィリピン…1個
ドイツ…1個
ペルー…1個
シンガポール…1個
中国から送られた石は、その多くが 当時、中国大陸で戦っていた日本陸軍からです。
というのは、当時の宮崎県知事の相川勝六の要請と陸軍大臣 板垣征四郎から
「軍または師団ごとに各々二個を標準とし、内一個は軍所属地付近のもの、
一個は第一線のなるべく皇威の及べる極限点付近のものを送れ」と通達があったから
です。
当の土台となっている石の中には中国大陸にいた陸軍の部隊から送られた石が80個以上あります。
改めて石に刻まれた名前を見ていくと「●●部隊」という中国大陸で戦闘をしたり、
駐屯をしていた部隊名、「●●愛国婦人同盟」といった当時の時代を反映する名称や「●●日本人会」といった名前が確認できます。
(麒麟の模様の石)
中でもおっさんが注目したのは、南京日本居留民会から送られた石で、見事な麒麟の模様が彫られています。
麒麟は中国では非常におめでたいものです。その麒麟の模様があるというこの石は、
何かの建物の一部と思われます。
(上海市政府庁舎の門と同じ模様の石)
中国大陸にいた陸軍の部隊から送られた石の1つ中支志賀中山隊と刻まれた石は、見事な唐草模様の石です。
これは調査の結果、上海にある上海体育学院の門にある石とわかりました。この上海体育学院は日中戦争中は、蒋介石が建てた上海市政府庁舎でした。
この石は中支志賀中山隊が戦利品として持ってきたのかもしれません。
(銅製の扉は神武天皇の船出)
八紘之基柱(八紘一宇の搭=平和の搭)は門で閉められていて中に入ることは出来ません。
この門は銅製で、大分の彫刻家、日名子実三が作ったレリーフが刻まれています。
ちなみにこの塔を設計したのも日名子実三です。
扉の上の部分には三種の神器=天叢雲剣、八咫鏡、曲玉が刻まれています。
三種の神器は天皇家が代々継承してきたものです。
その下の扉は、神話の神武天皇の美々津からの船出の様子です。船は宮崎県西都原から出土した船形埴輪がモデルです。
扉に刻まれた神武天皇の美々津の船出ついては下をクリックして御覧下さい。
なお、同じく皇紀2600年の4月15日には、宮崎美々津から大阪中之島までの神武天皇の船出を当時の船を再現し出航しています。
下は当時の模様を撮影した写真です。
(内部には時代を象徴するレリーフ)
この塔は、年に数回、内部が公開されます。
内部には、日名子実三が作った「天孫降臨」「神武天皇即位」など8枚のレリーフが
あり、当時の日本の雰囲気を知ることができます。
★貴重映像!
塔の中に入り内部に飾られているレリーフを撮影!
塔ができた時代背景がわかります!
【内部公開の時の様子は下をクリック】
八紘之基柱(=八紘一宇の塔、平和の塔)は、1940年(昭和15年)11月25日に竣工式を迎え、この席に昭和天皇の弟の高松宮が参列します。
その模様は当時の映画ニュースの中で「高松宮殿下台臨八紘の基柱竣工」という
タイトルで伝えられています。(ナレーションはありません)
(この塔が作られた1940年)
この塔の正面には「皇紀2600年」という文字が刻まれています。
これは、塔が建てられた年1940年(昭和15年)が皇紀2600年にあたる年だから
です。
この塔が完成する2週間前の11月10日には東京の皇居前で紀元二千六百年式典が
盛大に開催され2日間で5万5千人の参列者を迎えました。
【皇紀2600年式典につい書いたブログはココです】
この年は日本の建国のお祝いということで、札幌五輪、万国博覧会、東京五輪といった
国際的なイベントの開催も決まっていました。
しかし、長引く日中戦争でいずれも返上します。
一方、国際情勢に目を向けると日中戦争の真っ最中で、この年の3月30日には
すでに欧州戦線では第2次大戦は勃発しドイツ軍の進撃が続いています。
8月には日独伊三国軍事同盟が締結します。
(塔建設に携わった方々に話を伺った)
おっさんは、この塔ができて50年目にあたる1990年(平成2年)に、
この塔の建設にあたった人に話を聞く事ができました。
その方は塔の近所に住む、当時、宮崎技芸女学校の生徒さん達です。
勤労奉仕として、塔の建設のため皆で、モンペ姿で朝からモッコを担いで人力で
土地を開墾したそうで、この塔を作ることに自信と誇りを持っていたと語っていました。
(切手に、紙幣に)
この塔は切手や紙幣に登場しています。
1942年(昭和17年)に発行された4銭切手。富士山と並んで塔が描かれています。
また1944年(昭和19年)11月1日に発行された10銭紙幣には塔が描かれています。
(関連:皇紀2600年関連で宮崎に建設されたその他の搭)
この八紘之基柱(平和の塔)以外にも皇紀2600年関係で天孫降臨の地・宮崎には
石の搭が建設されています。
①皇軍発祥之地碑
【皇軍発祥之地碑について書いたブログはココ】
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
②日本海軍発祥之地碑
【日本海軍発祥之地碑について書いたブログはココ】
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
八紘之基柱(八紘一宇の塔:平和の塔)は、
戦前、そして戦後も宮崎を見つめています。
【塔に関して一番詳しいと思われる本】
【おっさんが今回参考にした素晴らしいデータブックはここ!!】
八紘之基柱(八紘一宇の搭=平和の搭)に関しては、この本が凄く詳しいです。
塔の礎石の1つ1つを丁寧に調べ上げ、どこの誰が送ったか、どんな団体が送ったかを詳細に調べ上げた完全データブックです。お勧めです!!
まずは下をクリックして御覧下さい。
【平和台公園HP】
<宮崎平和の塔への行き方>
JR宮崎駅からは徒歩30分程度
11月25日は、
1940年(昭和15年)に
皇紀2600年を記念し
天孫降臨の地・宮崎に八紘之基柱が完成した日です。