太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日月曜日の事です。
あれから・・76年目を迎えた2021年(令和3年)8月6日金曜日、
おっさんは広島市を訪れ原爆関係の史跡を歩いてきました。
76年目を迎えた当日に歩いて、そこから見えたものを紹介します。
★このブログに掲載した昔の白黒写真は、原爆関係の史跡などの案内板などに記載されていたものを引用させてもらっています。
(朝8時から平和記念式典)
2021年(令和3年)の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)は、
この日、とても暑かったですよおお。
原爆が投下された8時15分には、平和の鐘が鳴り黙とうが行われました。
(原爆死没者慰霊碑)
この慰霊碑にはこの1年に死亡、または死亡が確認された4800人の名簿が納められました。その結果、広島の原爆死没者は32万8929人となりました。
原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい」の文字。
その奥には原爆ドームが見えます。
原爆死没者慰霊碑には献花や黙とうをささげる人の長い列が・・。
もちろん、おっさんも黙とうしました。
(爆心地)
1945年(昭和20年)8月6日の午前8時15分、広島市の上空で原子爆弾が投下されました。
爆心地は、平和記念公園から少し離れた現在、島内科医院がある付近です。
この上空600メートルで炸裂しました。
おっさんは、600メートルという高さに驚きました。
上空600メートルですよ!!全然高くありません。
東京スカイツリーが634メートルですから、東京スカイツリーより低いところで
原爆がさく裂したわけです!!
このスカイツリーより低い高さで原爆により3000度の熱風、爆風、放射ができたわけです。
爆心地には、写真付きの案内板がありました。街の破壊具合がわかります。
(原爆ドーム)
1944年(昭和19年)から内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用された、広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)は、被爆した当時の形をそのまま残しています。
下の写真は被爆前の姿です。これが原爆で一瞬に原爆ドームの姿になりました。
中で働いていた方々は全員即死です。
(原爆の凄まじい破壊力)
広島に落とされた原爆は、「リトルボーイ」でウラン234を使用しTNT換算で約15ktの破壊力です。
1発の原爆で街が壊滅。崩壊です。たった1発の原爆ですよ。
当時の広島市の人口は、35万人でしたが、1発の原爆で非戦闘員の一般市民を含めた9万 から 16万6千人が、被ばく から2 - 4か月以内に死亡・戦死したとされます。
(原爆の凄まじい破壊力を物語るもの)
広島に投下された原爆の破壊力をしめすものも各地に残っていました。
爆心地からおよそ1キロ離れた広島城。ここは平和記念公園から歩いて20分程度の距離ですが、ここにも原爆の破壊力を示すものが複数ありました。
【広島大本営】
明治国家が初めて外国との戦争を行った日清戦争(1894年:明治28年ー1895年:明治28年)の時、広島城内に大本営が作られ、ここで明治天皇が戦争の指揮をとります。
長い歴史の中で大本営が東京以外にできて実務が行われたのは、ここ広島だけです。
しかし、この大本営も原爆の爆風で倒壊し、今では基礎の石だけが残っています。
【被ばくした樹木】
広島城内には、被爆した樹木が複数あります。
その1つがクロガネモチと言う木です。
被爆から76年、今では近くで見て焦げた様子はわからず、木は茂って元気のように見えますが・・。
【中国軍管区司令部防空作戦室】
広島城の中には太平洋戦争末期に中国軍管区指令部の防空作戦室が設けられました。
ここから中国地方5県に空襲警報などの情報が出されていました。
しかし原爆で一瞬に壊滅状態になりました。
被爆後に、生き残った女学生によりここから原爆投下の第一報が伝えられています。
(そのときは原爆や新型爆弾という表現がなく、街が壊滅状態と伝えたのみでした)
このように爆心地からおよそ1キロ離れた広島城でも、
この壊滅的状況、たった1発の原爆の破壊力の凄まじさを感じました。
ここには、原爆の破壊力、被爆証言、核兵器の歴史、などが紹介されています。
入場料は大人200円でした。
今回、76年目を迎えた被爆地・広島の各地を歩いて感じたのは、「1発で街を壊滅状態破壊にした原爆の破壊力の凄まじさ」、そして、「この原爆を戦場でなく、なぜ普通に暮らしている一般市民にさく裂させたか」ということです。
兵士同士が戦う戦場ならわかりますが、市民にこの原爆を使用するのは、
やはりおかしいと感じました。
やはり現場を歩くと色々な発見があります。