1771年3月4日、小塚原で行われた死刑囚の腑分けに医師の杉田玄白、前野良沢などが
立ち合います。
そして、この席で2人はオランダ医学の正確さに驚き、医学書の翻訳を決意します。
(医学書と人体を見比べる)
杉田玄白は若狭小浜藩医、江戸に来た長崎通詞から蘭方外科の素晴らしさを聞き、医学書の「ターヘルアナトミア」を見るたびにその精密さに驚き、苦労して入手します。
一方、前野良沢は豊前中津の藩医、この前年に長崎に行き「ターヘルアナトミア」を
入手していました。
1771年(明和8年)3月4日、前野良沢は仲間の杉田玄白から死刑囚の腑分けに立ち会う許可を得たとの知らせを受け同行しました。これに小浜藩医で玄白の僚友の中川淳庵も参加しました。
罪人の遺体の執刀は刑死役の役人が行い、玄白と良沢は持参した「ターヘルアナトミア」と死体を見比べ、そこに書き記された解剖図の正しさに驚嘆します。
これまで、彼らが学んでいたのは中国の解剖書でしたが、それに比べると「ターヘルアナトミア」のほうが、情報の正確さち密さに歴然の差があったのです。
西洋医学のレベルの高さに衝撃を受けた3人は、腑分け後の興奮ガ冷めない中、その日の夜、「ターヘル・アナトミア」の日本語翻訳本を作ろうと決意します。
(難作業)
しかし、これは当時とても無謀な挑戦でした。
杉田玄白と中川淳庵はオランダ語が読めず、オランダ語の知識のあるのは前野良沢だけでしたが、その良沢も翻訳を行うレベルまでありませんでした。
しかも通常使うオランダ語の会話ではなく医学の専門用語・・。
また、オランダ語の医学専門用語の辞書もありませんでした。
そのため翻訳作業は、手探り状態でほとんど暗号解読だったそうです。杉田玄白が、のちに記した「蘭学事始」には「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表しています。
(完成)
翻訳開始から3年半後の1774年、本文4巻、解剖図1巻の5巻からなる「解体新書」がようやく出版されました。
しかし前野良沢は、『解体新書』の著者として名前が載っていません。前野良沢は「不完全な翻訳の本なので、この本に自分の名前を載せるのはプライドが許さない」と感じたのかもしれません。
この「解体新書」は、日本の解剖学・医学に大きく貢献します。
腑分けが行われた小塚原刑場には、江戸時代の1667年に、この牢獄で亡くなった人や刑死者等を供養するために、回向院(えこういん)が建てられました。
回向院の入り口には、「解体新書」制作決意を記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。
回向院に掲げられた1枚の「観臓記念碑」、この1枚には人々の希望や苦労、決意、歓喜など様々な思いが込められている事をしみじみ感じました。
【荒川区公式HPに書かれた回向院】
<<回向院の行き方>>
JR南千住駅から徒歩2~3分
住所:荒川区南千住五丁目33番13号 連絡先:03-3801-6962
この回向院には、吉田松陰や橋本佐内、カールゴッチの墓があります。
【カールゴッチの墓について書いた記事はここ】
(
【吉田松陰の墓について書いたブログはココ】
・・・ということで
3月4日は、解体新書を作ろうと決意した日です