江戸時代末期の1859年10月27日(旧暦)、吉田松陰が処刑されます。享年29.
(松下村塾)
ここは久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など明治維新や明治政府で活躍する数々の長州藩の志士を輩出した私塾です。
その松下村塾で指導をした吉田松陰が安政の大獄で処刑されたのが10月27日です。
(簡単な吉田松陰ヒストリー)
長州藩では、教育者として後輩の指導・教育を行う一方で、自身も進んだ西欧の文化
文明を吸収しようとロシア船に乗り込もうと計画したり、ペリーが来た時には小舟を
盗んでその一団の船に近づき密航を企てたり・・と行動力がある方です。
しかし、ペリー一行の船に乗り込もうとして断られ失敗したために、自首します。
この時、松陰と一緒にペリーの船に乗り込もうとしたのが弟子の金子重之輔(かねこ しげのすけ、一説には「金子重輔」との表記も)で、2人の像が山口県萩市の吉田松陰生誕地にあります。
立っているのが松陰、隣で座っているのが金子です。
松陰が収容された野山獄は、身分が高い武士が収監される獄で、足軽など身分が低い武士、町人や百姓は岩倉獄に収監されます。金子は岩蔵獄に収容され25歳で病死します。
松陰は、野山獄で、たくさんの本を差し入れ勉強に励みます。
やがて、松陰はとらえられた囚人同士が、それぞれの得意な分野(和歌とか書道とか)を互いに教えあうことを提案し、それを始めます。
その結果、囚人たちは、人に教えるというやり甲斐を見つけ、生きる望みを持っていきます。
松陰は、野山獄の出獄後は、松下村塾で後輩の育成に力を注ぎます。
松下村塾では、高杉晋作、久坂玄瑞といった維新の志士、伊藤博文、山縣有朋といった明治政府の重鎮が学びました。
しかし、吉田松陰は幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだことに対して、
徳川幕府が日本の最大の障害であると強烈に批判し、倒幕を主張します。
こうした動きが、長州藩に危険視され、再度、野山獄に再入獄されます。
そして安政の大獄では、弟子たちと同時にとらえられ江戸へ移管されます。
幕府での取り調べに対しても、その姿勢を変えずに幕府批判を展開し、
倒幕計画および老中暗殺計画をもらしてしまったため、傳馬町牢屋敷で処刑されます。
<<辞世の句>>
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
(松陰の墓)
松陰が処刑された直後に遺体が埋葬されたお墓が南千住にある小塚原回向院です。
ここはJR南千住駅から徒歩3分程度の場所です。
【
ここには、そのほか安政の大獄で殺された橋本左内・頼三樹三郎ら多くの志士たちが
葬られています。
(松陰の墓は4つある!!)
松陰は、処刑直後は、ここに埋葬されましたが、やがて当時、毛利家の別邸があった
八王子=現在の松陰神社に移されたそうです。
ちなみに松陰の墓は全国に4か所あるそうです。
①斬首された直後に弟子たちが埋葬した小塚原回向院の墓
②後に小塚原回向院から改葬した東京世田谷区の松陰神社内の墓。
③山口県萩にある松陰誕生地付近の遺髪が納められている墓
この4つです。
(関連)
吉田松陰の最初の墓・小塚原回向院は、杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の解剖・腑分けに立会った場所でもあります。解剖や腑分けの時にオランダの医学書のターヘルアナトミアを参照とたことをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われて、入口には「観臓記念碑」が建てられています。 (小塚原回向院)
東京都荒川区南千住5丁目33−13
JR南千住駅徒歩5分以内
吉田松陰の言葉に
「夢なき者に成功なし」というのが
あります。
いい言葉です。
ということで10月27日は、
吉田松陰が処刑された日です。