日本の医学の発展に大きく貢献した「解体新書」、
そのきっかけとなった場所に行ってきました。
東京都荒川区の南千住駅から歩いて3分程度の回向院(えこういん)。
江戸時代、回向院のあたりは小塚原刑場という処刑場で、1667年(寛文7年)に牢獄で亡くなった人や刑死者等を供養するために、回向院が建てられました。
ここで江戸時代に日本の解剖学・医学の発展に大きく貢献した「解体新書」を作ることが決意されました。
(翻訳決意)
1771年(明和8年)3月、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵等が、罪人の解剖に立ち会いました。
この時、杉田と前野はオランダ語の解剖書、「ターヘル・アナトミア」を持っていて、彼らは解剖されていく人体の内部の様子と「ターヘル・アナトミア」に書かれている解剖図を見比べ、その正確さに驚き、感動しました。
これまで、彼らが学んでいたのは中国の解剖書でしたが、それに比べると「ターヘルアナトミア」のほうが、情報の正確さち密さに歴然の差があったのです。
西洋医学のレベルの高さに衝撃を受けた3人は、その日の夜、「ターヘル・アナトミア」の日本語翻訳本を作ろうと決意しました。
(難作業)
しかし、これは当時とても無謀な挑戦でした。
杉田玄白と中川淳庵はオランダ語が読めず、オランダ語の知識のあるのは前野良沢だけでしたが、その良沢も翻訳を行うレベルまでありませんでした。しかも通常使うオランダ語の会話ではなく医学の専門用語・・。
オランダ語の先生役となるオランダ語の通訳は長崎にいるのでそう簡単に連絡が取れず、また、オランダ語の医学専門用語の辞書もありませんでした。
そのため翻訳作業は、手探り状態でほとんど暗号解読だったそうです。杉田玄白が、のちに記した「蘭学事始」には「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表しています。
(完成)
翻訳開始から3年半後の1774年、本文4巻、解剖図1巻の5巻からなる「解体新書」がようやく出版されました。
しかし前野良沢は、『解体新書』の著者として名前が載っていません。前野良沢は「不完全な翻訳の本なので、この本に自分の名前を載せるのはプライドが許さない」と感じたのかもしれません。
この「解体新書」は、日本の解剖学・医学に大きく貢献します。
今、回向院の入り口には、「解体新書」制作決意を記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。
(おっさんが感じたこと)
何かに触発されて奮起して挑戦していく・・この気持ちはわかります。
この時点で、すでに医者だった杉田玄白や前野良沢ですが、西洋の医学技術に触れて「これじゃあいかん、何とかしよう」と決意したんですよね。
暗号を解くような作業だったと、実際に作業をした杉田玄白が語っていたように、
未知の世界に足を踏み入れ挑戦していく事は本当に大変であり、先駆者はとてもつらい思いをしたのだと改めて感じます。後から続く人は先駆者が開いた道を歩けばいいですが、先駆者はそれこそ試行錯誤、悪戦苦闘で道を切り開いたんでしょうね。
回向院に掲げられたたった1枚の「観臓記念碑」、この1枚には人々の希望や苦労、決意、歓喜など様々な思いが込められている事をしみじみ感じました。
<<回向院の行き方>>
JR南千住駅から徒歩2~3分
住所:荒川区南千住五丁目33番13号 連絡先:03-3801-6962
HP