【写真は事件前に訪問した長崎での皇太子ニコライ(未来のニコライ2世)】
5月11日、
訪日中のロシアの皇太子が警察官に襲われ
大けがを負うという事件が起きました。
大津事件です。
(ロシアの皇太子の日本訪問)
1891年(明治24年)4月27日、ロシアの皇太子のニコライ・アレクサンドロヴィチ、
後のニコライ2世が日本を訪問し、まず長崎に寄港しました。
ニコライは、5月31日まで日本に滞在する予定でした。
ニコライは各地で大歓迎を受け、長崎・鹿児島を経て5月9日京都に入りました。
(5月11日大津で・・)
そして5月11日、事件が起きます。
一行が京都から人力車で大津へ入り、園城寺(三井寺)や唐崎神社、県庁を訪問し滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)京町通下小唐崎町(現在の京町2丁目)にさしかかった時のことです。
行列を警備していた警官の津田三蔵が、突然、約90センチのサーベルを抜きニコライの頭部に2度斬りかかります。
人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎が警官と協力し、津田を取り押さえました。
ニコライはその場で手当てされましたが頭の後部に、骨に達する9センチの傷と、
額にも10センチの傷を負い、さらに手と耳も負傷しました。
この蛮行!!
ロシア皇太子を、警官が路上で暗殺しようというのですから、大不祥事です。
当時、ロシアといえば、世界第一の強国です。一方、日本は弱小国。しかも欧米列強とはまだ不平等条約を結んでいた時代です。
事件後、明治天皇が負傷したニコライ皇太子を急遽東京から訪問します。
その後、ニコライ皇太子はロシア海軍の装甲巡洋艦パーミャチ・アゾヴァで、本国ロシアに向けて出発しました。
出発前には、津田を取り押さえた二人の人力車夫を招き、勲章と多額の報奨金を与えました。
(一歩間違えれば日露開戦も・・)
ロシアの皇太子を切りつけた今回の事件・・。
ことの成り行き次第では、戦争勃発、巨額の賠償金請求、あるいは日本の領土の一部の割譲を要求される危険性もあった蛮行でしたが、ニコライ皇太子の冷静な判断やロシアの皇帝で父親であるアレクサンドル3世のおかげで、最悪の事態だけは避けることができました。
ここで思い出して下さい。第一次大戦の勃発はサラエボ事件=1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都のサラエボを訪問したときに、セルビア人に暗殺された事件がきっかけでしたよね。
ですから、この大津事件でロシアが攻めてくるという可能性もあったのです。
(ロシア皇太子の平癒を願い・・)
外国からの要人の歓迎を用意周到に準備していたにもかかわらず起きたこの事件。しかも、要人を守るべき立場の警察官・津田が国賓に対して殺害を企て斬りつけたという
この蛮行は、政府の重大な手落ちです。
小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたことの報復で、ロシアが日本を攻めてくるのではという恐怖が襲います。
ロシアの対日感情が悪化しないようにと、学校は謹慎の意で休校となり、神社・寺・教会では、皇太子平癒を願う祈祷が行われ、またニコライのもとには1万通をこえる見舞い電報が送られました。
裁縫師の畠山勇子は、死をもって謝罪すとして、京都府庁前で、かみそりで喉を切り亡くなります。
(動機は西郷隆盛??)
津田三蔵の犯行の動機は、皇太子ニコライの訪日が,日本侵略の準備であるという噂を信じたと言う説があります。
そしてもう1つ当時、西郷がニコライとともに来日したという噂が広まっていました。
津田の同僚であった町井義純巡査の証言では、津田は、ニコライが長崎に来たあとに東京でなく鹿児島に向かったのは西郷が生還したからだと大真面目に考えていたそうです。
津田は西南戦争に従軍し勲章を受けていましたが、西郷が戻ってきたらこの功績がなくなり勲章も取り上げられてしまうと悩んでいたそうです(なんとも!)
(司法の独立を守る)
ロシアとの関係悪化を恐れた日本政府は、津田に対し皇室に対する罪・大逆罪を適用し、死刑にするよう裁判所に圧力をかけます。
しかし現在の最高裁判長にあたる大審院長が謀殺未遂罪で裁くことを主張します。
結局5月27日に無期徒刑(=無期懲役)の判決が下されます。この裁判は司法の独立を守ったことでも注目されました。
津田は同年9月30日,釧路集治監で肺炎により病死しました。
・・・ということで5月11日は
大津事件が発生した日です。