日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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1月24日 210人中199人が死亡した八甲田山雪中行軍遭難事件

1月24日、210名中199名が命を落とす
(死亡率は94パーセント以上)という
日本の冬季軍事訓練で最も多くの死傷者を出した
「八甲田雪中行軍遭難事件」です。
これは、
近代の登山史上世界最大の山岳遭難事故でもあります。

(ロシアとの戦争を想定した極寒の地での訓練)
日本は、日清戦争に勝利したものの、三国干渉で遼東半島を手放すことになります。
そして、その遼東半島は、三国干渉をしてきたロシアが所有することになります。
南下するロシアとの戦いを意識した日本は、第8師団の歩兵青森第5連隊は、八甲田山の雪中横断を計画します。
それはロシアとの戦争で陸奥湾が封鎖された場合、八甲田山を越えて青森ー岩手間の行き来ができるかの確認と、極寒の地・満洲でのロシアとの冬期戦闘での耐寒・踏雪の想定及び研究を兼ねた演習でした。
(1月23日 第五連隊青森を出発)

青森にある歩兵第五連隊は、1877年(明治10年)の西南戦争や1894年(明治27年)の日清戦争、翌年の台湾戦にも従軍した陸軍の連隊の1つです。

 

1902年(明治35年)1月23日朝6時半、青森の歩兵第五連隊210名は、1泊2日で往復40キロの雪中行軍のため青森連隊駐屯地を出発しました。

しかし次第に天候が悪化し、青森を出発して約16キロの地点で暴風雪に見舞われます。持参したおにぎりが凍って食べることができない程の寒さになり、さらに吹雪も襲われますが、その後も極寒の雪の中を進んでいきます。
日が沈んだ午後8時頃に、露営地に到着することは不可能と判断したために露営をします。しかし2メートル以上積もった雪のため、露営陣地の設営が思うように進みません。

このときの気温はマイナス20度を下回ります。雪の中に残された兵士たちは凍死を防ぐためにほとんど仮眠もとらずに過ごします。
翌24日、幹部たちは夜中の2時に作戦会議を開き帰途に就くことを決めます。
午前2時半、まだ暗い中、歩兵第五連隊は出発します。
しかし、隊員の誰もが、この周辺の土地勘がなく、雪山の状況も知らず、暗闇と猛吹雪でどの方面に進めば良いのかも分かりません。
そのような中、出発したのですが、雪に閉ざされ、道がわからずさまよいます。
24日の青森県下は記録的寒波と猛吹雪に襲われます。20年ぶりの大雪に見舞われ、4日間の平均気温がマイナス7度から10度という青森測候所開設以来の気温を記録しました。
こうして極寒の中、さまよい続けた歩兵第五連隊の隊員達は、次々と凍え死んでいきます。

(27日にようやく発見)
一方、24日に救援が組織され操作及び救助活動が始まります。下の写真は捜査員です。

捜索は悪天候と大雪にはばまれ難航します。
27日になってようやく最初の1人を発見します。後藤房之助伍長です。後藤房之助伍長は雪の中で仮死状態のまま立っていたところを発見され救命措置を施され、11分後に蘇生したと言われています。後藤房之助伍長は、事故後には、両手両足を切断します。
この後藤房之助伍長の発見以後、生存者が救出され、また凍死者が見つかり、その搬送が始まります。

(凍った遺体)

次々と発見される遺体は雪の中で凍っていました。
下の写真は雪の中で、発見した遺体を洗浄するためにお湯を沸かす様子です。

遺体は凍っていたために、遺体収容所に集められ、鉄線で作った寝台の上に載せむしろをかぶせ、下から火をたいて溶かしました。

結局、捜索隊により雪中行軍をした210人のうち、救助された生存者は17人でした。
そのうち6人は病院に入院後死亡しています。つまり、最終的に生きて帰ったのは、わずか11人、その11人のうち8人は凍傷のために手足を切断する事態になりました。

(異常天候と準備不足が招いた大惨事)

今回の世界的な大惨事は異常天候と準備不足が招いたものでした。1月24日は記録的寒波と猛吹雪に襲われています。この異常気象にもかかわらず兵士達は、防寒の外套にわらの靴という軽装だったという記録があります。
生存者の証言には、「冷たい風雪が凶暴に吹き付け、衣類は氷固。手足は凍傷にかかり、眉とまつげは氷の柱になり、顔は赤く黒ずんだ」とあります。

・・・というわけで

1月24日は、
日本史上最大の大惨事となった冬季軍事演習である

八甲田山雪中行軍遭難事件が起きた日です。