1944年(昭和19年)8月4日
首都・東京から学童疎開第一陣が
出発します。
こうして、学童疎開は盛大に見送られました。
(疎開先)
疎開先ではお寺や公会堂などを宿舎にし,そこで授業も行っていました。
(つらい生活)
やがて、戦局の悪化とともに食料の配給量は減少し、米が不足し、雑炊、すいとん、
さつま芋、じゃが芋、かぼちゃ等を代用食とすることが多くなり、食料じたいも不足するケースが発生しました。
ま た肉や魚は手に入りにくくなり、育ち盛りというのに動物性蛋白質の摂取がほとんど出来ない地域もありました。
児童達は慢性的な空腹に苦しめられた人が多く、さらに慣れない土地での暮らしなどで辛い経験を強いられた方々もいました。
終戦の年となる1945年(昭和20年)の春には全国で約40万人を超える児童が疎開したと言われています。
そして終戦とともに学童疎開が終了し、学童たちは故郷に戻ります。
(疎開先から帰ってくる日を選んだ東京大空襲)
こうして空襲を逃れるために行われた疎開ですが、1945年(昭和20年)3月10日に行った東京大空襲は、アメリカが日付を計算した、したたかな空襲でした。
3月10日は陸軍記念日であり、また卒業式を予定している学校も多くあったため、
疎開先から多くの学童が東京に戻ってきました。
東京大空襲は、その日を狙ったのです。ひどいものです。
東京大空襲の慰霊祭には2023年(令和5年)に参列しました。👇
(疎開を体験された方の話)
疎開を経験された方に話しを伺うと、慣れない田舎での生活や家族と離れた心細さで、夜になるとあちこちで布団の中で泣く声が聞こえていたそうです。
また食べ物が不十分でいつもひもじかったこと、いつになったら帰れるかと不安だったこと、などを話されていました。
その一方で、あのまま疎開をしなかったら空襲に巻き込まれて死亡したかも知れないとも語っていました。
8月4日は、
学童疎開の第一陣が東京上野駅から出発した日です。
疎開を経験された方は、まだご存命です。
機会があれば、疎開のお話を伺いましょう!