日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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「皆さん これが最後です さようなら! さようなら!」8月20日 真岡郵便電信局事件起きる!!  

1945年(昭和29年)8月20日
終戦直後の樺太で悲しい事件が起きます。
真岡郵便電信局事件です。

無条件降伏しているにもかかわらず
ソ連が戦闘行為を行い樺太真岡に上陸。
現地の郵便局に残り、
電話交換業務を行っていた女性交換手12名のうち10名が
局内で自決を図り9名が死亡しました。

(日本領南樺太

1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス条約で、樺太の北緯50度より南半分が,日本領となります。

そして、1908年(明治40年)9月に4基の天測境界標を置き国境を確定します。ちなみに日本が国境標石を設置したのは、歴史上この時だけです。

日本の領土となった樺太の南半分には多くの日本人が移住し、終戦頃には、約40万人が暮らしていました。

 

当時、樺太と日本本土の間には、電話線が引かれていました。

当時の電話は、今と違いました。電話をかける人が、受話器を取るとまず、郵便電信局の電話交換手に繋がります。そして、交換手に電話を繋ぎたい相手を交換手に伝え、交換手が手動で回線を繋いで相手に繋がり会話ができる、という仕組みでした。

(製紙業の街・真岡)

南樺太の西海岸にある真岡は、暖流の影響で冬でも凍ることがないため日本最北の不凍港とよばれ、1919年には樺太工業が製紙工場を建てたことから樺太屈指の製紙業の街として栄えました。

そして真岡でも、他の地域と同様、電話は、郵便局にいる電話交換手の女性たちが手作業で、交換業務を行っていました。

(日ソ中立条約を破りソ連対日参戦)

1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に参戦し、

国境を越え南樺太に攻め込みます。

8月15日、終戦をむかえ樺太に残留する邦人は、日本本土に疎開をはじめます。その疎開をするときに、連絡手段として電話が重要な役割を果たします。

 

(朝礼)

8月16日、終戦の翌日、真岡郵便局で、朝礼が行われました。

その朝礼で、政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ていますが、ソ連軍が上陸しても現地に残留し最後まで電話交換業務を続ける人材が必要だと告げます。

すると、その場にいた17歳から24歳の、女性交換手が残留を志願します。
ここで重要なのは、現地に残留するということは、侵攻するソ連軍と対峙する可能性があり、すなわち、うら若い女性がソ連兵に何をされるかわからないという危険を伴っていました。「残留」には、「最後には自害」するという選択肢も含んでいたのです。


最終的には、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残ることになりました。

8月19日午後7時、真岡郵便局には、平井茂蔵電信主事他、男性職員6名、女性職員の14名が作業をしていました。うち女性交換手12名は、電話交換業務を行う奥の建物にいました。

 

ソ連上陸)

翌8月20日、朝7時半頃、ソ連の軍艦が真岡港に現れ、艦砲射撃を行い、多くの市民が命を落とします。終戦を迎え、日本は無条件降伏をしていて戦闘状態は終了しているはずなのに、ソ連軍が軍事攻撃を行ったのです。

さらにソ連軍の上陸用艇が真岡に上陸します。彼らは非戦闘員である市民を射撃し、
家屋にも侵入し強姦や略奪を始めます。
このように真岡の街は、戦争が終わっているにもかかわらずソ連軍から一方的な攻撃を受けます。

当時、真岡郵便局は、平屋建ての本館と、奥の2階建ての別館があり、電話交換業務は別館2階で行われていました。
ソ連からの艦砲射撃で真岡郵便局内も被弾し、本館は破壊され、別館2階に電話交換手の女子12名だけが取り残されます。
彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、電話交換業務を継続していましたが、次第にソ連軍が郵便局に迫ってきました。

迫り来るソ連軍に対し、「もう最後だ」と感じた彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送ります。
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」・・・。

 

そして女子たちは、次々と青酸カリで自殺をはかります。
そして9名が還らぬ人となりました。

稚内公園にある 九人の乙女の像には、最後の言葉が刻まれています。 自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員も
ソ連兵からの攻撃を受けていて、真岡局の殉職者は19人にのぼります。
(その後)ソ連軍による樺太侵攻は8月25日の樺太全土占領まで続きました。
そして郵便局は1カ月後に再開し、生存した局員はソ連人の部下として勤務することになりました。

【真岡郵便電信局事件に関して】

 

 

 

 

 

 

 
 

樺太を望む公園に)

九人の乙女の像がある稚内公園。ここからは、天気がいいときには、樺太が見えることがあるそうです。

 
1945年(昭和20年)8月20日
侵攻してきたソ連軍に対し、
最後まで本土との通信回線業務を行い、
命を落とした方々の
悲劇は、決して忘れてはいけません。