日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレ,あらすじ 31話「史上最大の決戦」


31話は、「史上最大の決戦」。ではストーリーを見ていきます。
賤ケ岳の戦いで勝利した秀吉は、天下人へと大きく駆け上がっていきます。

 

(戦勝祝)
1583年(天正11年)6月、家康は、秀吉の戦勝祝の挨拶のため、石川数正を名代として送り込みました。

家康は家康に、名茶器の初花肩衝を、祝いの品として贈りました。この初花肩衝は、1つの城を建てることができるような高価なもので、それを秀吉に送る事に対し家康の家臣たちは猛反発します。

「よもや秀吉に跪くおつもりではありますまいな。お市様を死なせた奴ですぞ。」と言う直政に対し、平八郎は、「秀吉の機嫌をとるのは、油断させるのと、秀吉の腹の内を探るため」と推察します。

 

(数正参上)

さて、秀吉のもとに、数正が参上すると、案内係りである秀吉の弟・秀長は、挨拶待ちをしている他の人を飛ばして数正を優先的に通してくれました。

挨拶のあと、秀吉は、数正に近づき「いつ見てもええ男っぷりだわ…徳川殿がうらやましい…わしも、そなたのような家臣が欲しいのう。」と言いました。

数正が、秀吉に贈り物を差し出すと、初花肩衝に頬ずりしながら涙を流して喜び「徳川殿に伝えとくりゃあせ!徳川殿が頼りじゃと!支えあって、仲良くやろまいな!わしの新たな城が出来上がったらお招きするで、また遊びに来てちょーでえ!」と大満足です。

しかし、数正が去ると、秀吉は、家康本人が来ないことに不満を言います。

 

(秀吉の印象)

戻った数正は、家康に「何もかも芝居のようであり…いや、何もかも、ただ赤子のごとく心のままのようにも思える…。得体が知れん。」と秀吉の印象を伝えます。

さらに、「秀吉が言った新たな城となる大坂に作る城は、安土よりはるかに大きくなるようで…信長を超えたと世に知らしめるためでしょう。」とも言います。

 

(信雄からの誘い)

秀吉から安土城を追われた信雄=信長の次男から、家康に内々に会いたいという書状が届きました。

信雄は家康に会うと、「秀吉に利用された。秀吉から天下を取り返してくれ」と涙を流します。

しかし、今、勢いがある秀吉と戦うのは、大変です。そのため、家康は浜松城にこの問題を持ち帰りました。

話しを聞いた左衛門尉は軽々に乗るべきではないと進言し、家康も「無謀な戦をするつもりはない」と言います。

 

(家康動く)

1584年(天正12年)2月、家康はついに動きました。

信雄は「礼を言う…礼を言うぞ、徳川殿!」と涙を流して感激しますが、家康は声を落とすように言います。近くに秀吉と通じている者がいるので警戒すべきだというのです。こういう裏工作は秀吉が得意とすることです。

信雄は、秀吉との内通が明らかになった3人の家老を見つけ殺害します。

これが秀吉との合戦の合図となりました。

 

3月13日、岡崎城に徳川の軍勢が集結します。

家康は「機は熟せり…織田信雄様のもと、今こそ、われらが天下を取る時ぞ!と叫びます。そして家康の呼びかけに、各地の大名らが呼応します。越中佐々成政、四国の長宗我部元親紀伊雑賀衆らも動き出したので、兵が分散すれば秀吉に勝ち目があると家康は読んでいました。

 

(寝返り)

しかし、信雄を交えた清州城での軍議をしているとき、まさかの出来事が起きました。調略したはずの池田恒興は裏切り、突如として信雄を攻め始めたのです。この池田の寝返りで、秀吉を取り囲む計画ができなくなり、10万を超える秀吉軍と直接対峙することになりました。

 

(器が小さい織田信雄
こうしている間にも池田勢は、尾張に向かって進軍を続け、清州城と目と鼻の先にある楽田城に向かっています。

この状況に狼狽する信雄に対し、家康は「秀吉を相手にした戦が思い通りにいかぬことは、もとより承知の上。総大将がうろたえるな!信長の息子じゃろう…しっかりせい。」と檄を入れます。

 

(秀吉・家康対峙)

一方、家康の家臣たちは皆、自分の手勢を率いて打って出る!と名乗り出ますが、左衛門尉が「ならぬ!お主らの出番はまだ先じゃ!」と止めに入ります。
そして、左衛門尉は「殿はすっかり頼もしくなられた。そしてお前たちもおる…必ずや勝てると信じておる!あとは頼んだぞ。お前たちがやるんじゃ。殿、私にはこの辺りがちょうどよい死に場所と心得ております。」と言い出陣します。

左衛門尉は羽黒に陣を敷いて森長可の兵を奇襲し、撃破しました。家康は続けとばかりに声をはります。

3月28日、秀吉の大軍勢が犬山城を埋め尽くします。犬山城は、家康が陣を敷く小牧山城とはわずか3里(約11キロメートル)ほどです。

秀吉と家康、この両雄がついに相まみれることになったのです。(つづく)