日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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9月15日 米軍ペリリュー島に上陸開始 ~ペリリュー島の戦い、はじまる!~

1944年(昭和19年)9月15日、
米軍が南太平洋に浮かぶペリリュー島
上陸を開始します。
74日間に及ぶペリリュー島の戦いがはじまります。


ペリリュー島とは・・)
ペリリュー島は、パラオ共和国にある島の1つです。
フィリピンの東方数百キロの南太平洋に浮かぶ南北9km、東西3kmの小さな島です。

ペリリュー島は1885年(明治18年)にスペインの植民地になり、その後1899年(明治32年)からはドイツの植民地になりました。
そして第1次世界大戦後には、国際連盟の委任を受けて1920年大正9年)から日本が統治するようになり、電気、水道、道路、学校など社会的基盤の整備を行います。

 

(東洋一の規模を誇る飛行場を持つ太平洋の要)

ペリリュー島には1939年(昭和14年)に、長さ1200m、幅80mの交差した滑走路を2本持つ東洋一の規模を誇るペリリュー飛行場が作られます。
そのためペリリュー島は、日本本土防衛の最前線基地であり、この島を守ることは日本と日本の国民を守ることでした。
下の写真は今も島に残る日本軍の司令部跡の写真です。

下の写真は1944年(昭和19年)6月1日に撮影されたペリリュー島西岸を視察中の歩兵第15連隊本部です。同連隊の1部の部隊がペリリュー島の守備についていました。

 

ペリリュー島全島を要塞化)
ペリリュー島の守備隊は水戸の部隊を中心とした1万2千人、守備隊長は中川州男大佐です。(私の高校の先輩です)。

守備隊は、アメリカ海軍の総攻撃を控えて1年がかりで洞窟を掘って陣地を構築し島を丸ごと要塞化します。しかも壕と壕とを直角を交えた通路で縦横に結ぶ壕「地下複郭陣地」でした。直角の部分を設けたことで、敵の手りゅう弾がほうりこまれても、その爆風を抑えることができます。

また、斜面を利用してトーチカも建設します。


(一般人を戦闘に巻き込まない)
また、守備隊は、島の人たちを戦争に巻き込まないために、邦人約160人だけでなく、現地の人々約800人にも島を立ち退くよう命じています。

このとき、住民は「避難するのは嫌だ。私たちも一緒に米軍と戦いたい!私たちは長い間、白人の統治下にあって奴隷のように扱われてきた。日本がきて初めて人間として扱われた。私たちも同じ日本の国民です。日本人として誇りをもって戦いたい」と口々に言ったそうです。この言葉に日本が南洋諸島をいかに統治していたかがわかります。

こうして米軍の空襲の合間をぬって島民の避難は全員無事に終了しました。そのためペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はいません。

 

(9月15日米軍上陸開始)
昭和19年(1944年)7月下旬になると米軍はペリリュー島への空爆を、さらに9月12日からは艦砲射撃を始めます。これらの激しい攻撃で島の形が原型をとどめないほどになりました。

そして9月15日午前6時半、アメリカ海軍第1海兵師団が上陸作戦を敢行しました。アメリカ軍上陸用舟艇が上陸部隊を乗せてペリリュー島の海岸に向います。


師団長のウィリアム・ルパータスは、「2、3日で片付く」と豪語していました。
しかし、5日間の戦いで、上陸作戦部隊第1陣の第1海兵連隊は壊滅しました。島の海岸は、オレンジビーチという名前ですが、それは、この戦いで白い砂浜や青い海が米軍の血でオレンジ色に染まった事に由来します。

米軍を迎え撃つ日本軍は、敵陣に突っ込む突撃を禁じ持久戦にもち込みます。
しかし、戦力の差はどうしようもなく、やがて、弾薬も尽き、飲む水も食糧も無く、何日も飲まず食わずという日が続きます。

そして11月24日、日本軍守備隊の中川大佐は連隊旗を燃やし師団本部にペリリュー守備隊玉砕を知らせる「サクラ、サクラ」の電報を打ちます。その後、中川大佐は「皆の足手まといになるといけないから先に行く」と言って、中川大佐、村井少将、飯田中佐の3人は割腹自決をします。

残った遊撃隊は27日午後7時ごろ玉砕し、ペリリュー島の組織的な戦闘は終結しました。

終戦後も、生き残った兵士たちは洞窟にたてこもり続け、戦闘終結から2年半後の1947年(昭和22年)4月22日、元海軍少将の説得でようやく兵士たちは武装解除に応じました。そのとき生き残っていた日本兵はわずか34人でした。

 

9月15日から74日間続いた戦いでは、日本軍の戦死者は1万22人、負傷者は446人。茨城県水戸市で編成された陸軍歩兵第2連隊、総員3600人のうち、9割の人がペリリュー島で命を落としました。
一方の米軍の死者は1684人、負傷者7160人でした。


(原住民の思い)
戦闘が終わると避難してていたペリリュー島の原住民たちが続々と帰島してきました。しかし島は、激しい攻撃で彼らの住居も島の形も原形をとどめてなく、日米双方の遺体があちこちに残っていました。
ここで彼らは、日本軍兵士の遺体を踏んづけたり小便や唾をかけたりする米兵の姿を、目撃し驚愕します。
そこで彼らは、米兵がいないときに、日本軍兵士の遺体を集めて火葬し、遺骨を集められ墓地を作ります。その墓地は、今も島民の人々の手によって守られています。

 

またペリリュー島には、ペリリュー神社があります。この神社は、戦後再建されましたが、その神社の前にある石碑に一編の詩が刻まれています。

この文章を書いたニミッツ提督はペリリュー攻防戦のときの米軍の最高指揮官だった人物です。つまり敵の総大将が日本軍の勇気を称えて詩を寄せたのです。

 

ペリリュー島の生存者の方と水戸で会う約束をしたが)

実は、おっさんは2015年頃、このペリリュー島の戦いで生き残った方とお逢いする約束をしていました。しかし、色々な事情があり、なかなかその日が定まらず、そうこうしているうちにお亡くなりになりました。貴重なお話を聞く機会を失い非常に残念です。

 

 

 

 

 

・・・ということで
9月15日は
米軍がペリリュー島に上陸を開始した日です。