日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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10月6日、日本初の銀行強盗・赤色ギャング事件発生!資金難の共産党が資金確保のために行ったのです!!

 

1932年(昭和7年)10月6日、東京大田区
日本初の銀行強盗事件である・
赤色ギャング事件が起きます。

この赤色ギャング事件の「赤色」は
「せきしょく」または「あかいろ」と読みます。


(東京大田区で銀行強盗)

1932年(昭和7年)10月6日午後3時55分、東京都大田区にあった川崎第百銀行大森支店の裏口から覆面姿の3人の男が裏口から押し入ります。いずれも帽子をかぶり、2人は黒マスクをつけていました。そして先頭にいた男が床に向けて実弾を2発、発砲します。さらに行員全9名を応接室に集め、出納係の机に集めてあったお金をわしつづかみにし手提げ袋にいれます。

こうして現金3万1700円(現在の相場で1億円相当)を奪い、外に用意していた車で逃走しました。その間は、わずか5分程度という早業でした。

知らせを受けた警視庁大森警察署は、ただちに緊急配備を敷きますが、犯人はつかまりません。

(偶然)

ちょうど同じ頃、牛込神楽坂警察署では、ある博徒の取調べを行っていました。
その男が「以前、別の暴力団員に拳銃で脅かされた」と供述します。そこで、その暴力団に関して捜査を行ったところ、拳銃の密売人がいることをつき止めます。

その密売人を追及したところ「以前サイトウという男に拳銃25丁を売り、今度も、そのサイトウに拳銃6丁と実弾600発を売る予定だ」と自白します。

それを聞いた警察はサイトウを大森のギャング事件の関係者と推測し、待ち合わせ場所に張り込ます。そして、検挙に成功しました。

(同じ番号のお札)

サイトウの所持金の中に、強盗事件の発生した川崎第百銀行大森支店から盗まれた拾円紙幣の番号と一致する物がありました。

 

やがてサイトウは犯行を自供します。サイトウは日本共産党員の資金局員であり、今回のギャング事件の主犯格でした。そして彼の供述により、残る2名も検挙された。

 

(資金難に苦しむ共産党、その解決策は銀行強盗!!)

このギャング事件の背景には、当時の日本共産党の資金難がありました。

日本共産党では、1930年(昭和5年)頃には、武装闘争方針がとられていましたが、
次第に検挙や逮捕が相次いだことで人数が減り弱体化し同時に資金難に苦しみます。

この状況を何とか解決しようと、銀行強盗を計画します。
「資金難=金がないから強盗」という発想が全く理解できませんね。

「金がないから奪おう」と本気で考えた共産党員達は、アメリカのギャングの本を入手し、熟読し、強盗の手口を学習します。
この情熱を、商売を始めるとか、他のことに使えば良かったのですが・・・。
そして密輸業者からピストルを60丁以上を購入し、街のチンピラを使って、銀行襲撃を計画します。しかしチンピラに、なんとその資金を持ち逃げされます。(おい おい!)

そこで他人は信用ならんと言うことで、共産党員自らが銀行強盗をする事になりました。(おい おい!)

 

共産党員の中に、大森の第百銀行に勤務する親族を持つ者がいたことから、銀行の内部事情が詳しく分かる大森の第百銀行に狙いを定め、10月6日に犯行を決行したのです。
この日本初の銀行強盗は成功しましたが、拳銃の売人から捜査が及び犯人達は逮捕されました。


この時期の日本共産党は、この事件の他にも岡山県にある中国銀行本店への強盗、女性党員を資産家の家政婦に送り込み安心させて強盗に入る、収監された共産党員を奪還する、刑務所襲撃事件も計画していた過激武闘派集団でした。
岡山銀行本店襲撃は、銀行内に協力者をつくり、入念に計画を進めていて、実行直前にまで至っていましたが、赤色ギャング事件の逮捕者が計画を供述したことで、 中国銀行は寸前で襲撃を免れました。


★なお、日本共産党は、この事件にかかわる一連の経緯について否定しています。

・・・・ということで、
10月6日は、日本共産党員による
日本初の銀行強盗が起きた日です。