7月6日は、1939年(昭和14年)に
日本海軍が誇る名戦闘機・零戦の試作機による
試験飛行が始まった日です。
それを記念して「ゼロ戦の日」になっています。
(皇紀2600年にちなんで命名)
零戦は、堀越二郎が設計したもので、正式名称は「零式艦上戦闘機」。
「零式」とは「0」、つまりこの機体が制式採用された1940(昭和15)が皇紀2600年に当たることにちなみます。当時の日本軍機の名称は、採用年の皇紀下2桁を冠すると、決められていました。
一方、連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)でしたが、パイロットからはZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれていました。
(太平洋戦争初期は無敵)
零戦は、高性能で優秀なため、太平洋戦争の初戦は、ほとんど無敵でした。各地で、アメリカ、イギリス、中国、オランダなどの戦闘機・軍用機を撃墜していきます。
零戦は攻撃力とスピード、そして長い航続距離が優れていました。
特に日本軍が開発した「落下増槽」という使い捨て型の燃料タンクのおかげで、長距離飛行が可能でした。
この「落下増槽」は、操縦席からスイッチで投棄することができる外付け式の燃料タンクです。
下の写真は、真珠湾奇襲に出撃する零戦二一型です。機内にある燃料タンク525リットルと落下増槽の330リットルの合計850リットルあまりを搭載できたために、約3350kmを飛行できたといいます。
(零戦の操縦席)
東洋一と言われた陸軍太刀洗飛行場。今、この跡地には平和ミュージアムが建てられています。ここには零戦三二型が展示されています。
零戦の操縦席を見ることができます。
計器がたくさんあります。
(おっさん 空飛ぶ零戦をこの目でみる!!)
何のとりえもない普通のおっさんですが、自慢があります。
実は!実は!中学生のころに、実際に空を飛ぶ零戦をこの目で見たのです!!
おっさんが見た空を飛ぶ零戦は1944年(昭和19年)サイパン島アスリート飛行場で、捕獲され、米国に保管されていた零戦五二型です。
下の写真は出撃直前の零戦五二型です。
現在、零戦五二型は、靖国神社の遊就館に飾られています。これが実際に空を飛んでいるのを見たのです!
零戦五二型が展示されている靖国神社遊就館に関しては下をクリックしてご覧く下さい↓
(1979年1月10日、「ゼロ戦故郷を飛ぶ」企画で
福岡県久留米市にゼロ戦飛来!)
おっさんが空を飛ぶ零戦を見たのは、1979年(昭和54年)1月10日(水)でした。
実は、前年の1978年(昭和58年)から、ゼロ戦故郷を飛ぶ実行委員会が、「ゼロ戦故郷を飛ぶ」というイベントを日本各地で行っていました。
そして1979年(昭和54年)1月10日、その零戦=零戦五二型が、おっさんが住んでいた福岡県久留米市上空にも飛来しました。久留米は陸軍師団司令部などがある軍都でしたので、その関係で零戦が飛来したのだと思います。
おっさんは当時、福岡県久留米市に住む中学生でした。
1979年(昭和54年)1月10日は水曜日で、新聞で、零戦が午後に、久留米市上空に飛来することがわかっていました。
そのとき、忘れもしませんが、美術の時間で、先生が「まもなく零戦が来るから今日は自習」という実に粋な、はからいをしてくれました。
(先生も見たかったのかな??)
そこで、おっさんは友人と中学の屋上にのぼり、零戦がどこにいるのか探しました。
すると、零戦は、伴走する1機の飛行機とともに西鉄久留米駅の近くにある岩田屋というデパート方向から、おっさんがいる久留米市諏訪野町の中学の方向へと進んできました。おおおお!!!
プロペラを回して空を飛びこちらに向かってくる零戦!!もうそれだけで興奮です。
そして、零戦は、おっさんたちがいる真上を一気に通過します。
プロペラの音、真上で見たゼロ戦の翼に書かれた日の丸・・・大感動、大感激です!
今になって思えば、あの高さでの飛行は航空法違反では??と思うくらいの
近さでした。
そして、零戦は、もう1度屋上にいるおっさんたちの真上を通過し、そのまま長崎の大村へと向かいました。
こうして時間にして10分もありませんでしたが、自分の真上を低空で飛ぶ本物の零戦五二型・・その姿に大興奮でした!!
携帯電話やデジカメがある現在と違い、当時は写真機も高価だったために持っていませんでした。
そのため当時の零戦の飛行を映した写真は1枚もありません。またネットで検索しても、当時の久留米を飛ぶゼロ戦に触れた記事はごくわずかです。
ただ、あの感動と記憶は、今もおっさんの脳裏に刻まれています。
その時の「零戦・故郷を飛ぶ」の記録写真集が販売されています!!
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日本の技術を結集した名機・零式艦上戦闘機は、
今も大人気です。
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・・・ということで 7月6日はゼロ戦の日です。