日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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住民を救うために自身の命を犠牲にした男 B29撃墜王の遠藤幸男の壮絶な最期

1945年(昭和20年)1月14日昼間、
名古屋で、B29と戦っていた海軍の飛行機「月光」が
山間部に墜落します。
この飛行機に乗っていたのはB29撃墜王と呼ばれていた
遠藤幸男中佐でした。
その最期は住民を犠牲にしてはいけないという
強い思いがありました。
(B29撃墜王:遠藤幸男)

「B29撃墜王」と呼ばれた人物がいました。海軍の遠藤幸男中佐です。遠藤は1915年(大正4年)9月9日、山形県で生まれます。山形工業高校を首席で卒業し乙種飛行予科練習生として海軍航空隊に入隊します。
遠藤中佐はB29を16機撃墜したB29撃墜王で、愛用機の戦闘機「月光」には1機を撃墜するごとにピンク色の桜の花を描いていました。

(斜め銃を持つ夜間戦闘機 月光)
遠藤中佐が愛用した「月光」は、1943年(昭和18年)8月に、正式採用された双発の夜間戦闘機です。20mm機関砲を機体前後の水平軸に対して前方向き仰角30度前後で取り付ける「斜め銃」を装備していました。この「斜め銃」の利点は、敵の重爆撃機の弱点部分である後ろ下方への攻撃が容易にできることです。
この斜め銃は、ボーイングB-17やB-24などの重爆撃機に対する夜間迎撃に戦果をあげました。

戦争末期にB-29による日本本土空襲が始まると、月光はB29迎撃機として活躍します。
当初B29は、護衛機がつかない夜間の低空爆撃を行っていました。

下の写真はB29を月光が下から攻撃する様子をとらえた写真です。B29に比べ月光がかなり小さいのがわかります。

写真を拡大しますね。
このように潜り込み、斜め銃で後ろ後方を攻撃し撃墜していたのです。

遠藤幸男は、その卓越した操縦テクニックで月光をあやつり、次々とB29を撃墜します。

そして撃墜王と呼ばれ、ファンレターが殺到するほどの国民的英雄になります。

(住民を犠牲にしてはいけないと自らの命を捧げる)

1945年(昭和20年)1月14日昼間、40機のB29が、名古屋の三菱重工業名古屋発動機製作所を目標に襲来します。
このときは夜間ではなく日中でしたがB29迎撃として実績がある遠藤は、月光を操縦し出撃します。
遠藤機はB29を1機を撃墜し1機を撃破しますが、自らも被弾し炎上します。
遠藤は、「このまま脱出したら燃えたままの月光が集落に墜落してしまい多くの人が犠牲になる」と考え、自機を人口が少ない山間部地域まで操縦します。
そして、まず同乗していた偵察員の西尾治上飛曹を先に脱出させ、それを確認した後に自分も脱出しようとします。
しかし、すでに飛行機の脱出高度が不足していたために、脱出が間に合わず落下傘がひらかず、遠藤は戦死します。29才でした。
また先に脱出した西尾治上飛曹も残念な事に脱出に失敗し死亡します。
2人の葬儀は3月21日に厚木基地の大講堂で行われました。
B29撃墜王の遠藤幸男は、B-29邀撃に対する偉功により2階級進級の発令をうけ、功三級金鵄勲章を賜わります。

脱出すれば助かったのに、
民家を巻き込んではいけないと判断し、
結果として命を落とした撃墜王・遠藤幸男、
このような方がいたことをわすれてはいけません。