2024年(令和6年)3月10日(日)、
10万人以上が犠牲となった東京大空襲から79年です。
この日、東京大空襲犠牲者追悼集会に参列しました。
(会場は遺体を借り埋葬した隅田公園)
追悼集会の会場となったのは東京都台東区浅草七丁目一番にある隅田公園。
この公園は、隅田川にかかり東京都台東区と墨田区を結ぶ言問(こととい)橋のたもとにあります。下の写真の左側です。
1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカの爆撃機B29、279機が30万発の焼夷弾を投下し、東京は下町を中心に壊滅的な被害を受け、10万人以上が犠牲となりました。
言問橋には炎から逃れようとする人が両側から殺到し多くの命が奪われました。
そして、遺体は、隅田公園付近で仮埋葬されました。
今、隅田公園には追悼碑が建てられています。
戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
昭和六十一年三月 台東区
(午後1時追悼集会開催)
東京大空襲から79年となる2024年(令和6年)3月10日(日)午後1時、隅田公園の追悼碑前で、で東京大空襲犠牲者追悼集会が開催されました。
東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会が主催し台東区が共催する追悼集会が行われました。主催者によると参加者は約150人とのことです。
おっさんは最前列席にいました。
以下が式の流れです。
(現職の国会議員がハッキリと「空襲は国際法違反!」)今回の追悼集会でマイクを握った共産党の小池晃衆議院議員は、東京大空襲は国際法違反であるとはっきりと発言しました。
(88歳女性の証言)
また、東京大空襲体験者の88歳の女性の証言がありました。その方は当時9歳=小学3年生でした。「B29が焼夷弾を落とすために低空爆撃をしていて、パイロットが赤いマフラーをしているのが見えた。男の人が赤いマフラーなんて という思いで今も覚えている」「空襲から逃げようと母と妹と3人で言問橋を渡った時に、マネキンのような人形がいっぱいあると思ったら、それが遺体だった。」と証言しました。
今はスカイツリーが後方に見える言問橋ですが、東京大空襲の時には、この橋は遺体で埋め尽くされていたのです。
(13時半黙とう)
13時半には、全員が起立し、1分間の黙とうをしました。実は、黙とうする様子をある新聞に写真付きで掲載されました。おっさんは最前列だったので、黙とうするおっさんの写真が新聞に掲載されていたのですが、著作権の関係でここでは発表できません。
(全員献花)
黙とう終了後、参列者全員の献花となりました。
おっさんも亡くなられた方を追悼しました。
(言問橋の縁石)
追悼碑の右側には、コンクリート塊がありました。これは1992年(平成4年)に言問橋の欄干を改修したときに、その基部の縁石を切り取ったものです。
東京大空襲のときに覆われた火やススの跡や焼かれた人の脂や血などが、ついていたそうです。
【1945年(昭和20年)3月10日の浅草】
(東京大空襲は国際法違反の民間人大量殺戮)
今回、共産党の小池晃議員が話したように、東京大空襲は「非戦闘員である民間人の殺戮」であり国際法のハーグ陸戦条約3条違反の行為です。
1945年(昭和20年)3月10日午前0時直後から始まった空襲で、東京の街は焼け野原になり10万人以上が死亡します。これは単独の,しかも1夜の空襲による世界史上最大規模の犠牲者数です。
【東京大空襲を報じる当時の日本ニュース映像】
(計算された東京大空襲)
3月10日の東京大空襲には初めての試みがいくつかあります。
まず、民間人を本格的に狙った空襲。
これ以前の空襲のターゲットは、主に軍事施設でした。
爆弾の命中率を上げるための超低高度飛行、さらに夜間の爆撃、そして焼夷弾の使用という新しい戦術が本格的に導入されたのもこの空襲です。
さらにいかに効率よく焼き尽くすかの研究も行われています。
(陸軍記念日に空襲)
東京大空襲がおきた3月10日は陸軍記念日でした。
陸軍記念日とは、1905年(明治38年)に日露戦争で陸軍が奉天の戦いでロシア軍を破ったことにちなんだもので、この日は、記念式典があるため全国に疎開していた
東京の子供たちが都内に戻ってきます。その日を狙ったのです。
(日本家屋の研究)
米軍は東京大空襲の計画段階で、江戸時代に起きた火事や1923年に起きた関東大震災で発生した火事の状況を調べ、その火元・火の燃え方や拡大の様子・風向き・延焼状況・被害の実態などを細かく分析しました。
そして木造住宅が密集する日本の大都市は大規模火災に対して非常に弱いことに注目し、「木造住宅をいかに効率よく燃やし焼き尽くすか」という攻撃に重点をおきます。
(焼夷弾の開発)
住宅が密集する日本の大都市をいかに効率的に焼き払うかを研究するために、ユタ州に日本式家屋が立ち並ぶ住宅地、通称「日本村」を造り、そこで焼夷弾の燃焼実験を行います。この実験で日本家屋を焼き払うに1番ふさわしい、延焼能力が抜群なM69焼夷弾のナパーム剤を使用した焼夷弾が生ます。
(気象を研究)
本格的な東京大空襲がなぜ3月10日だったか、
それは一番効率よく空襲の成果が出るようにと米軍は日本の気候を完全に把握研究し、
3月10日が乾燥し風が強い日だとわかったので、その日を狙いました。
(毒ガスや細菌散布も予定されていた)
東京大空襲以降、連合軍は東京にマスタードガスなどの毒ガスを散布する研究、日本の農作物を枯らす薬品の散布、さらに日本国民用に炭そ菌をばらまく計画もありました。
結局、生物兵器も化学兵器も細菌兵器もその使用前に戦争が終わりましたが、もし徹底抗戦でそのまま戦争が継続していたらと思うとぞっとします。
【東京大空襲について書いた本】
国際法違反の民間人の大量無差別殺戮を行い
1夜にして10万人以上の命を奪った東京大空襲。
この日を忘れてはいけません。