1944年(昭和19年)6月30日
東条英機内閣が
都市の学童を地方へ学校単位で
集団疎開させること=
学童疎開促進要綱が
閣議決定されました。
(疎開の目的)
国民学校初等科第3学年から第6学年の児童が対象となり、国民学校 3 年生以上の児童を都市部から農村へ避難させる学童疎開を行うことにします。残留組と疎開班に分かれ、出発の時にはお別れの式が各地で開かれました。
疎開先では、お寺や公会堂などを宿舎にし,そこで授業も行っていました。
やがて、戦局の悪化とともに食料の配給量は減少し、米が不足し、雑炊、すいとん、
さつま芋、じゃが芋、かぼちゃ等を代用食とすることが多くなり、食料じたいも不足するケースが発生しました。
ま た肉や魚は手に入りにくくなり、育ち盛りというのに動物性蛋白質の摂取がほとんど出来ない地域もありました。
児童達は慢性的な空腹に苦しめられた人が多く、さらに慣れない土地での暮らしなどで辛い経験を強いられた方々もいました。
終戦の年となる1945年(昭和20年)の春には全国で約40万人を超える児童が疎開したと言われています。
そして終戦の年の1945年(昭和20年)11月に学童疎開からの復帰が完了します。
(疎開先から帰ってくる日を選んだ東京大空襲)
こうして空襲を逃れるために行われた疎開ですが、1945年(昭和20年)3月10日に行った東京大空襲は、アメリカが日付を計算した、したたかな空襲でした。
3月10日は陸軍記念日であり、また卒業式を予定している学校も多くありました。
そのため、疎開先から久しぶりに東京に戻り、家族や友人との再会を喜んだ児童も多くいました。
その日に焼夷弾の雨あられで焼き尽くす東京大空襲がおきたのです。
ひどいものです。
東京大空襲の慰霊祭には2023年(令和5年)に参列しました。
(疎開を体験された方の話)
疎開を経験された方に話しを伺うと、慣れない田舎での生活や家族と離れた心細さで、夜になるとあちこちで布団の中で泣く声が聞こえていたそうです。
また食べ物が十分でなくいつもひもじかったこと、いつになったら帰れるかと不安だったこと、などを話されていました。
その一方で、あのまま疎開をしなかったら空襲に巻き込まれて死亡したかも知れないとも語っていました。
6月30日は疎開が決定した日です。
疎開を経験された方は、まだご存命です。
機会があれば、疎開のお話を伺いましょう!