日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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もう1つの壬生の新選組屯所:旧前川邸 ~ここで古高俊太郎へ拷問が行われ、その自白で池田屋事件につながります~

新選組の壬生の屯所の1つ、旧前川邸。
ここでは池田屋事件のきっかけとなる古高俊太郎への拷問や切腹が相継ぎました。
当時の部屋がそのままの姿で残っています。

※当ブログでは、新選組時代を「前川邸」、新選組以降を「旧前川邸」と表現しています。
新選組壬生の屯所の1つとして)

1863年文久3年)、近藤勇芹沢鴨などの浪士組が京都に残ることを決めます。
そして隊士達は八木邸と、ここ前川邸に分かれて住みました。こうして、ここ前川邸も1863年から約2年間、新選組の屯所として使われていました。

現在、旧前川邸は、建物がほぼ当時のまま残っていますが、内部は、個人宅のため非公開です。外から眺めるだけです。前川邸の見取り図が貼られていました。

(前川邸の長屋門の角で拍子木を叩いたら全員集合)
下の写真は、旧前川邸の長屋門です。新選組がいたころ、隊士達はこの門をくぐって

屯所に出入りしていました。


新選組隊員は八木邸と前川邸に分宿していたため彼らを呼び集める時には、前川邸の長屋門の西側の角に立って、拍子木を打ち鳴らしていたそうです。

池田屋事件を聞き出した拷問が行われた部屋)
前川邸で有名なのは、ここで商人・古高俊太郎の拷問が行われ、その自白が池田屋事件につながったことです。

1863年長州藩尊王攘夷派の公家が京から追放される「八月十八日の政変」がおきます。京都の商人・古高俊太郎は、枡屋喜右衛門を名乗り商いを行いながら、勢力を失った長州藩有栖川宮家とを取り次ごうとしたり、尊王攘夷派の浪士たちの手助けを行うなど幕府方にとっては要注意人物でした。
彼は1864年(元治元年)年6月5日早朝に新選組に逮捕されます。そして諸藩浪士との書簡や血判書が発見されます。
さらに古高は、壬生屯所の前川邸の蔵で局長・近藤勇と副長・土方歳三による取調べを受けます。
この取り調べは、2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられるといったひどいもので、彼はついに、自白します。

その内容は,尊攘派熊本藩宮部鼎蔵らが中心となり,6月下旬の強風の日に、京都に火をつけ、その騒ぎの最中に中川宮(朝彦親王)を幽閉し,一橋慶喜京都守護職松平容保の暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るというものでした。

その夕刻、古高への拷問で事情を聞き出した新選組は、吉田稔麿北添佶摩宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20人あまりが集まった池田屋を,近藤勇ら数十人で襲い殺害します。これが、池田屋事件です。

ということで、この前川邸は、池田屋事件のきっかけとなった、古高への拷問が起きた場所なのです。その拷問の場所は今も残っているそうです。

 

そのほか、旧前川邸では芹沢派で最後まで残った野口健司の切腹した部屋、1865年(元治2年)2月23日、新選組総長・山南敬助が脱走の罪で切腹した部屋、隊士の付けた刀傷など、が今も残っているそうです。

また、1863年文久3年)9月に芹沢鴨が暗殺された日には、土方たちは、前川邸にある土蔵の二階から八木邸を見張っており、芹沢一派が島原からの帰還し、部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったそうです。
(今も残る近藤勇の落書き)

前川邸には一枚の雨戸に残された落書きが残っています。この表面には会津新選組隊長近藤勇、裏面には大きな文字で、勤勉 努力 活動 発展と墨書されています。

<<旧前川邸>>

個人宅なので内部は非公開、そとから眺めるだけです
阪急京都線「大宮駅」、京福電鉄嵐山線四条大宮駅」より徒歩8分
京都市バス壬生寺道」より徒歩1分 ..
住所:中京区壬生賀陽御所町39

旧前川邸、外から眺めるだけですが、
そこで何が起きたかを感じると興味深いです。