本州の西端、山口県下関市。関門海峡に面したこの地は、幕末の志士・高杉晋作に
ちなんだ史跡があります。
そこで、おっさんが実際に足を運んだ下関市の晋作史跡を紹介します。
(高杉晋作とは・・)
高杉晋作は、長州藩の武士の子で、吉田松陰が主宰していた松下村塾門下生。
その優秀さで、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれました。
尊王攘夷の中心人物であり、馬関戦争時の長州藩代表の1人、奇兵隊創始者の1人、
討幕運動の中心でもありました。
その高杉晋作は、1867年4月14日、結核がもとで、山口県下関市で死亡します。このとき27歳、この年に行われた大政奉還を見ることなく亡くなりました。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の歌でも知られています。
【4月14日 高杉晋作終焉の地に掲げられていた写真です】
1863年5月10日、攘夷政策をとる長州藩は関門海峡で外国船に対し砲撃を行います。
しかし、逆に報復を受けます。この時、晋作は下関の防衛を任せられます。
そして6月に身分にこだわらない兵隊組織を結成します。奇兵隊です。
奇兵隊の誕生は「武力を持つのは武士のみ」と言う江戸時代には、画期的な出来事でした。
【奇兵隊について書いたブログはここ】
この奇兵隊設立には、下関の豪商・白石正一郎の財政支援が大きな力となりました。
当初、白石邸には奇兵隊の本陣が置かれていました。
<<奇兵隊結成の地・白石正一郎邸への行き方>>
JR下関駅徒歩5分 中国電力下関営業所 横
住所:山口県下関市竹崎町3丁目8-13 中国電力下関営業所
(馬関戦争の舞台・みもすそ川公園)
1864年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を
砲撃し、砲台が占拠されます。(馬関戦争)
この時、24歳の晋作は和議交渉の窓口を任され、諸外国と交渉します。
この講和会議で連合国は「彦島の租借」を要求しますが、晋作は拒否し撤回させます。
また高杉晋作は、攘夷は幕府の命令で長州藩はそれに従っただけだから賠償責任先は、幕府にあると主張し、賠償をしていません。
【馬関戦争について書いたブログはここ】
【みもすそ川公園HP】
<<みもすそ川への行き方>>
(決起した功山寺)
1864年12月15日には、晋作は、下関市長府にある功山寺で、尊王討幕の決起を行います。
【回天義挙した功山寺について書いたブログはここです】
<<功山寺への行き方>>
(第二次長州征伐そして死)
晋作は、1866年の第二次長州征伐の時には海軍総督として「丙寅丸」に乗り指揮を執り幕府軍を破り、さらに小倉藩を攻め敗走させます。
こうして、晋作は長州藩で討幕の中心人物として活躍していきます。
しかし、結核にかかり下関の大庄屋の林算九郎と言う人の邸宅の離れに住み、生活していました。高杉晋作が住んでいた屋敷は「緑堂」と呼ばれていました。
そして1867年4月14日、下関市桜山で肺結核の療養中に死去します。満27歳でした。
(高杉晋作終焉の地)
高杉晋作の終焉の地は、山口県下関市のJR下関駅西口から10分ほど歩いた住宅地の一角にあります。
【高杉晋作終焉の地について書いたブログはここ:命日に行ってきました】
<<高杉晋作終焉の地への行き方>>
JR下関駅西口徒歩10分以内 妙蓮寺と言うお寺の前です
住所:山口県 下関市 山口県新地町1
(おまけ:京都の高杉晋作の墓)
(参考)京都の霊山護国神社には、久坂玄瑞と高杉晋作の墓が同じ場所にあります。
【霊山護国神社について書いたブログはここです】
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