12月30日は、
室町時代の1368年に
足利義満が第3代将軍になった日です。
足利義満は、初代室町将軍の足利尊氏の孫で、二代将軍足利義詮の次男です。
この足利義満は、金閣寺を建てた人、日明貿易で財をなした人、南北朝の統一を果たした人、そして花の御所と呼ばれる大邸宅を作り室町幕府が一番力があった時代の将軍として歴史の授業で習います。
足利義満は、世の中が安定せず戦乱に明け暮れた足利尊氏や父・足利義詮とは違い
京都で生まれ、京都で過ごします。
そして1368年12月30日に征夷大将軍に任命され、室町幕府の3代将軍に
なります。
足利義満は、
15代続いた足利将軍の中で1番栄華を誇った将軍で、
もしその野望が実現したのなら史上初の
将軍と天皇、双方の父親となり、
史上最高権力者になっていたかも
しれない人です。
上に足利15代将軍を列挙しましたが、調べてみると足利幕府の時代は実に不安定で、1336年の幕府成立から1392年までは南北朝時代、1467年の応仁の乱から1573年の足利義昭追放までは戦国時代、その他にも将軍が不在の期間が何度もあるなど本当に不安定でした。
【室町時代の不安定さについて書いたブログはココ】
そんな不安定な時期が多い室町時代の中で、3代将軍の足利義満は権力も勢力も財力も極めた将軍でした。
その栄華の1つが金閣寺です。綺麗と言うか見事ですよね。
(天皇家を乗っとろうとした将軍)
足利将軍の中で一番の栄華を清めた足利義満ですが、色々な文献などを読むと、
天皇家を乗っとろうとした動きがあります。
それでは、そのシナリオを見ていきましょう。
義満は幕府では3代将軍、そして朝廷では太政大臣となり、その地位を極めていきます。
また,明との貿易では勘合札に「日本国王」と記述し、当時の大帝国の明から
「日本国王」のお墨付きをもらい、箔付けを進めていきます。
そして義満の野望が動き出します。
まず長男の義持に4代将軍を譲ります。
次に次男の義嗣を天皇の養子にさせ皇位に就けようと計画します。
血筋を考えると足利義満は源氏の流れを汲み父方は清和天皇。母方は84代天皇の
順徳天皇です。義満はこの順徳天皇の5世の孫です。そして当時の御円融天皇は
イトコ。
これまでも天皇になるときは、天皇の遠い血筋の人を天皇に即位させたことがあるので義満の息子が天皇になるのもおかしくはありません。
もし計画通り次男の義嗣が天皇になれば、義満は天皇の父親=上皇として君臨することも可能です。
もしこれが実現すれば、足利義満の、長男の義持は4代将軍、次男の義嗣は101代の天皇、そして義満自身は将軍と天皇双方の父親でかつ上皇という史上最高の権力者に
君臨することになります。
さらに、将軍である次男が天皇になれば、以後天皇家を足利家の血筋が受け継ぐことが可能になります。
義満はこのように天皇家を足利家で乗っ取ることを企んだとされます。
今まで天皇を名乗る人や、権力者として天皇に取って代わろうとした人、
新しく自分が天皇だと称した人はいました。
また、自分の娘を天皇の后にすることで、自分の孫を天皇にする人は、
しかし、「男系で天皇家を血筋ごと乗っとろうと動いた人」は、
足利義満だけしか思い浮かびません。
さらに、タイミングがいい事に、この頃、宮中では、「王朝が100代で新しい王朝に
変わる」という説が流れていました。
丁度、後小松天皇で100代目。
この説を義満は利用し、後小松天皇委が王朝が足利王朝に代わるのは天の采配だとして皇位簒奪の流れを正当化するために利用したと思われます。
義満は、後円融天皇の息子の後小松天皇を即位させ、傀儡とします。
そして後小松天皇を招き、15歳の息子・義嗣を宮中で「立太子」の礼を行わせ
元服させます。
これで義嗣は義嗣親王となり、皇位が継承出来るようになりました。
あとはこの義嗣が、後小松天皇から皇位を継承し天皇になるのを待つだけです。
乗っ取りの準備が整いました。
(義満の計画達成寸前に謎の突然死)
しかし、義満は義嗣立太子から10日後、発病し突然死します。
この突然死は朝廷の反対派による毒殺との見方が強いです。
その後、この計画は当然ながら流れてしまいます。
また、その後は、義満が進めようとした天皇家乗っ取り作戦を行う人は
誰も出てきません。
やはり皇室を乗っ取るのは「畏れ多い」と感じたのでしょうか?
あるいは、義満の死を天皇乗っ取りをたくらんだ罰だと考え、
以後は誰もそのようなことを考え付かなかったのでしょうか?
その彼が第3代将軍になったのが12月30日でした。
義満の天皇乗っ取り計画、調べてみると面白いです。
本当に将軍家と天皇家の合体を考えた人がいたんですねええ。