(一天両帝南北京)
室町時代当初、日本には2つの朝廷がありました。
鎌倉幕府が1333年に滅び後醍醐天皇による政治=建武の新政が始まりました。
しかし、この建武の新政は武士を落胆させ、やがて武士の気持ちが離れていきます。
そして1336年、足利尊氏が建武政権に反し,持明院統の光明天皇を擁立して、京都に
室町幕府を作ります。
一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここを都と定めます。
この段階で、日本に2つの朝廷、2つの天皇が存在します。そして南北朝ともお互いに
元号を持っていました。
当時の人は、これを「一天両帝南北京」と表現していました。
南朝の都が置かれたのは奈良吉野の山中にある金峯山寺(きんぷせんじ)です。
この金峯山寺には、吉野大衆と呼ばれる僧兵がいて、その勢力は興福寺や延暦寺南都
北嶺に匹敵すると言われました。こうした軍事的背景を考え、後醍醐天皇はここに都を
構えました。
(吉野を訪れたら、ぜひ押さえたい南朝の史跡)
おっさんはこの吉野を訪れこの地に残る吉野朝廷関連史跡を歩いて回って来ました。
吉野の山奥に追いやられる形となり、京都の足利尊氏に対抗しようとした後醍醐天皇の思いを考えると何とも言えない気持ちになりました。
では、吉野南朝関係お勧めの史跡です。
③吉野朝廷皇居
④後醍醐天皇陵
最期の後醍醐天皇陵は少々遠いですが、吉野朝廷皇居から20分くらい歩くと行けますよ。
南北朝以前に、日本で天皇が2人いて、朝廷が2つ存在したのは、平清盛と後白河法皇、
双方の孫の安徳天皇が在位していた時に、後白河法皇が同じ孫で安徳帝の異母弟の
後鳥羽天皇を即位させました。この、1183年から1185年までの2年間は、2人の天皇が即位して、2つの年号がありました。
【安徳天皇について書いたブログはココ】
(分裂・裏切り・和睦・・混乱が続いた南北朝時代)
建武の新政失敗後の南北朝時代は1336年から始まりますが、この間、足利幕府内で仲間割れが起き、お互いが南朝とくっついたり離れたりと関係がごちゃごちゃになります。
1351年10月24日に足利尊氏が南朝に降伏し北朝の崇光天皇は廃止され、南北朝は
統一されます。これを正平一統(しょうへい いっとう)と言います。
しかし、これは長く続かず、また南北朝に分かれます。
結局、南北朝は3代将軍脚から義満の時代の1392年に統一されます。
【南北朝時代の足利幕府内のゴタゴタを書いたブログは
ココ】
しかし1392年の南北朝統一後も、南朝側はその扱いに不満を抱き、南朝復興を掲げる
皇族などが「後南朝(ごなんちょう)」と呼ばれ、反幕府の活動を行いますが、次第に消滅していきます。
(吉野にはケーブルカーがお勧め)
なお、吉野に行くには、国内最古のケーブルカーで行くのがいいですよ。風情がありますよ。
【吉野の山頂に行くケーブルカーについて書いたブログはココ】
・・ということで、南北朝を語るうえで欠かせない
吉野。
日本史好きの皆さん、是非足を運んで下さいね